不安とうまく付き合うためのメッセージ

College girl study for exam

 好評なら、続々探してあげていくので、気に入ったらツイッターのハートかリツイートお願いします!

およそ10年前の自分の言葉を発掘しました。心理的スランプに陥って凹んでしまっているあなたの力になれるかもしれない、と思ってあげときます。読み返すと、「不安とうまく付き合うためのメッセージ」が主です。

☆ 2009年度版 最後のあいさつ

 結論を先に言えば、我々人間は、生きているのではなく、生かされているのです。これが、今ぼくがあなたたちに一番伝えたい「真実」であり、人生の先輩として伝えなければならないことだと思って今書いています。

 ぼくは、増田塾だより12月号で、あなたたちの入試の結果は運命である、と言いました。言い換えれば、もう決まっているものであって、運命のようにそれを受容すべきだ、と言っていたわけです。この言葉は、12月号を熟読してくれれば誤解されないと思いますが、もう一度説明しておきます。

 あなたたちが来年どこの大学に通っているか、それは、ある意味すでに決まっています。しかしそれは、あなたたちの残りの時間の努力が無意味で、やってもやらなくても変わらない、という意味ではありません。残りの時間の努力は組み込まれていて、その上での結果がすでに決まっている、ということです。こうなる「べき」運命は決まっています。それは、ここまでくる時間の流れの中で、もっと言えば、あなたたちが歩んできた人生の流れの中で、その流れからするとこうなる「べき」結果がさだめられ、必然性を持った流れの中でやってきます。しかし、それに乗り切れずに、その運命をつかめないことはありえます。だから、残りの時間で我々にできるのは、運命を捻じ曲げて、予定にあるだろう未来を捻じ曲げて合格をつかみとることではありません。それは上野とかの偉人でないとできません。言い換えればぼくにもできません。我々にできるのは、予定されている未来へちゃんとたどり着くことです。今までの流れ上の必然のもとにある未来へ、たどりつくことです。どんな運命が未来に待っているのか、それは今現在からはわかりません。わからないけれども、それはすでに定まっているもので、戦時中の汽車のように、あとはそこにしがみついて終着地点までいけるかどうか、そういうことです。

 こういうと、だれにさだめられているのか、神がいるのか、という質問を思いつくでしょう。これに理論的に答えている人は、増田塾だよりにも書いた心理学者のユングです。麻雀をしていても思うのですが、われわれは(もしかして日本人だけなのかもしれませんが)、共有する共通感情、流れを感じ、それに従おうとする無意識を持っています。言い換えれば、我々の「気持ち」というか、「想い」というものは、どこか物理的・科学的でない世界でつながっていると思いますし、そのようにユングは言います。だから、「こうなるべきだ」とか、「こうなるんじゃないかな」とか、「こうなってほしい」とか、「こうしてあげたい」とか、そういう必然を背景に持ちうる想いは現実化する可能性が高いのです。麻雀や野球で言えば、ミスやエラーをすると、マイナスなことが続いたり、マイナスな未来が起こったりすることを、そこにいる皆が共通して思います(これを感じないことをKYといいます)。すると、その共有している気持ちが、自然と体と脳に具現化されます。だから、スポーツ競技を見ていても、ありえないエラーが続いたり、麻雀でも確率的に起こりえなかったりすることが起こるのです。だから、合格する未来を思い描き、自分の合格を言葉に出せなくても確信できている人は、周りの人にもそう思われている人は、本番で力を出せる可能性が高いのです。「背中を押されている」とよく言いますが、目に見えないだけで、周りの人の想いや願いには、そういう力があるものだと、今は確信しています。非科学的で、今までの自己否定のような考えであると自覚しながらも。

 例えば、次のような場合です。“一年間ひたすらがんばってきた。その上で、自分の欠点からも目を背けずにそこを直視し改善しようとがんばってきた。今までの人生から考えれば、この一年で得たことは、学力面だけでなく、精神的成長の面でも人間的成長の面でも大きかった。それを周りの人も認めてくれている。だから多くの人に受かって欲しいと思われている。”そういう人には、それ相応の未来が来ます。それは、上記の共通する感情が、それを背負っているのではなく、それが背中を後押ししてくれることが、最後の強さを、あと一押しの勝負強さを生み出すからです。

 もう一つ例を挙げます。我々は、歴史上非常に稀有な時代を生きています。今日言いたいことは、いつも授業で言うような「ネット時代の夜明けに立ち会った我々の稀有さ」ではなく競馬の世界の話です。ウォッカという牝馬(=♀)がいました。この雌馬は、歴史的な名馬です。ダービーという、馬の人生で一回しか出られない、すべての競馬に携わるものが至上の価値を置くレースに、ウォッカは牝馬であるにもかかわらずかかんに出走し、そして圧勝しました(♀が勝つこと自体、60数年ぶり)。このこと自体が歴史的なのですが、そのあともこの馬は、牡馬(♂)に混じってトップクラスで競争し続け、そこで何回も勝ちました(競馬の世界では、♂>♀は圧倒的なものです)。獲得賞金も10億円を越え、G1(獲得賞金も大きいレース)勝利数も歴代1位タイになり、二年連続で年度代表馬にも選ばれました。競馬の歴史の中で、これほどの牝馬が出てくることは、もうぼくが生きている間にはないと思います。それくらいすごい馬で、その馬と人生の時間を共有できたことを、ぼくは感謝しています。

 この例で言いたかったことは、一つ前のパラグラフにはありません。書いている最中に熱くなり、元の話しの本質を忘れる、というよくあるぼくの癖によって、パラグラフ全体がウォッカの説明になっただけで、小論文的にはやってはいけないことです。で、ぼくがあなたたちに伝えたかったこの馬の意味は、その最近の勝ち方にあります。競走馬の一生において、特に牝馬は、そのピークが長くありません。多分、子どもを産む、という生物としての本能が、そうさせるのだと思います。きっとこの馬のピークは、3歳のダービーの時だったと思います。しかし、4歳、5歳となってもこの馬は一戦級で牝馬であるにもかかわらず勝ち続けました(また熱くなり気味であることに気づきました 笑)。大切なのは、その勝ち方です。4歳時の天皇賞で、ウォッカは、2センチ差の写真判定で勝利を収めました。その2センチというのは、乗っている騎手にもわからないくらいのわずかな差です。馬自身にもわからないでしょう。さらに、翌年のジャパンカップでもウォッカはまた、2センチの差で写真判定の結果勝ったのです。そのジャパンカップというレースで、ウォッカ陣営は、ずっと主戦でウォッカに乗っていた騎手の武豊を降ろし、外国人ジョッキーを乗せました(合理主義的英断でした)。もうピークを超えたと言われていたウォッカ陣営はなりふり構わず、勝ちにいきました。また1600メートルという距離で圧勝するウォッカには、2400Mは不利だと言われていました。3歳時のダービーと違い、勝つべき力を持っていたから勝った、という必然的な勝利が待つレースではなかったと思います。しかしウォッカは、再び2センチという本のわずかな差で、しかし必然的に勝ちました。印象的だったのが、その馬を管理する厩務員が本気で男泣きしている姿がテレビに映し出されたときです。それは本気泣きであり、自己陶酔でもなく、もちろん自己の責任やプレッシャーから回避された涙でもなく、なんといったらいいのでしょう。自分のための涙ではなかった、そう強く思いました。少ししか映らなかったのですが、その姿にぼくは強い感銘を受けました。ウォッカはどれだけの想いを受け取って、どれだけの想いに背中を押されて走っているのだろう、と思いました。

 その2センチ差は、偶然ではないのです。たとえわずかの2センチであっても、たとえそれが偶然に見えようとも、その2センチは必然なのです。必然の流れの中での運命的な結末なのです。人間にかかわる限り、馬も人間的な生き物になります。それは、ペットもそうです。動物とでも愛情交換や信頼関係が成り立ちうることは、わかってもらえると思います。ウォッカは、たまたま2センチ差で偶然勝ったのではなく、勝つべくして勝ったのです。その勝つべくした必然的な流れにのった結果が、2センチ差の勝利なのです。もちろん、そこに辿り着けた陣営の懸命さこそがたたえられるべきものだと思います。でも、その結果は、陣営の努力で運命を捻じ曲げたのではなく、あるべき運命に陣営が辿り着いただけなのです。言い換えれば、ずっと昔から、こうなるべき必然の運命を、少しずつ、そう、まるでウイスキーを醸成するかのように、少しずつ作ってきたのです。直前の懸命さで、運命を捻じ曲げたのではありません。

 入試本番も、上記のような写真判定で多くの合否が決まります。わずか数点で、もしかしたら1点以下の差(偏差値化によるもの)で、我々の合否は振り分けられます。その合否を分けるのは、実力の差でしょうか。前にも言ったように、300点満点では、平均15点のミスが起こります。単純に問題をよくよんでないものや、解答用紙の順番を間違えたものから、後から考えてみればできたもの、本番の緊張で時間配分を誤ったものまで含めたら、きっともっと多くの点数でしょう。希望する大学の合格をつかんだ多くの人は、圧勝ではなく、ぎりぎりの勝負で、まさに写真判定で勝利をつかむのです。だから、同レベルの大学でも合否が分かれるのです。だから、模試の判定が実力の上下とは思えないくらいに上下するのです。

 写真判定まで持ち込めるかどうかは、君らのここまでの学習によって培った実力によるでしょう。だから、受かりえないところを数うっても無駄なのであって、受かりえないところに受かることはほんとうにまれであって、宝くじを当選させるために数百万を使う人がいないように、たくさんのお金をかけるものではありません。しかし、その写真判定の結果は、君らの実力によって決まるものではありません。ぎりぎりの勝負、競馬で言えば首の上げ下げ、その結果を決めるのは、君らの本番力と、それを作る君らの流れなのです。流れの中にある、必然的な運命なのです。

 この一年間で君らが作った流れ、もしくはこの3年、もしくは生まれてからずっと流れている流れ、それらの流れが、君らの感情、無意識を支え、本番で力を、集中力を発揮させます。それをぼくは信頼して、信じています。信じている、というと、「そうあって欲しい」とぼくが思っているだけ、と誤解されるかもしれませんが、そうではありません。毎年の結果を見ても、“どうしても受かって欲しい、受からせてあげたい、なにがなんでも受かりたい、そのために一年間このぼくが満足するくらい自分の弱さを変えてがんばってきた”生徒は、びっくりするくらいの合格も含めて、およそみんないきたいところに受かったと思います。もちろん去年より前には、(もしかしたら見落としているだけで去年も、)満足できる志望校に受からなかった、すごくがんばった生徒がいました。そういう不合格に対し、ぼくは責任を感じ、自分の力不足を痛感し、もっと何かしてあげることができなかったのか、もっと有効なアドバイスを伝えることができなかったのか、そう思います。そして、その積み重ねが今のぼくのスタイルと君らとのコミュニケーションであり、増田塾だよりの文章であり、この文章でもあるのだと思います。でも、そういう生徒はみな、その進学先にいいものが待っていたことを、むしろそのあまりうれしくなかった進学先に進んだことのほうがよかったことを、語っていたし、伝達してこない生徒も、今そう確信していると思います。必然的にそうなるのです。まさに、そう「なる」ように、我々の無意識が、そしてそれが共有され、増大し、現実を変えていくのです。だから、理不尽な不合格も、一年の努力が無駄になる未来も来ません。たとえ、近代合理主義的価値判断からはそう見えたとしても、その先にはそれ相応の「価値」(非近代的なものかもしれませんが)が待っています。ぼくはそのことを自信持って確信していて、自信を持って君らに伝えられます。これこそが、人生の先輩たるぼくが、今受験を前にしている君らに届けるべき、まさに「真実」です。だから怖がることはないのです。必然的な未来を見にいってきなさい。その必然的な未来が、今までの努力や成長と比べて、非常に残念な未来になることもないです。たとえそう見える結果だったとしても、そのように人に言われる結果だったとしても、その先には、あなたの努力や成長に見合うものが必ず待っているでしょう。そう断言できます。

 今のぼくは、数年前の生徒には申し訳なく思います。今ならわかる、“長文が読めない原因も、どうすれば読めるようになるのかのアドバイスも、なぜ現代文が読めるようにならないのかも、学習や時間との付き合い方においてどこが間違っているのかということも、人間関係の悩みを打ち明けてきたときにできる有効なアドバイスも、昔のぼくにはできなかったことが多いものです。それらは、ぼくがここまでの人生で、過去の生徒との時間の中で自分を更新し続け、得られるものを得て変わってきた結果であり、昔からぼくが持っていた認識や知識ではありません。だから、もしかしたら、それが原因で、合格させてあげられなかったのかもしれない。これが傲慢な言い方だというならば、合格に導いて、ナビゲートしてあげられなかったのかもしれない。今のぼくと出会うことができたなら、合格に導けたのかもしれない。これはすごく傲慢な言い方であるとは思います。でも、ぼくはずっとそう思って生きてきました。すべての人が、めいいっぱい、まさしく命を賭するくらいにMAXにがんばるならば、そしてそれが私立文型という大学入試の場ならば、きっとIQに関係なく、志望校に合格することができる。それがぼくのこの仕事をする上での前提です。だから、ほんとうにがんばっているのに、自分の価値観さえも変えて、自分の悪いところを認めて変わろうとがんばっているのに、それでも志望するところに合格させてあげられない生徒がいることが、毎年堪えます。自分の技術と認識とアドバイススキルがもっと向上すれば、人間的成長度と人間としての深みがもっと高まれば、そうしたら理想をかなえることができる、そこにぼくの仕事上の目標とアイデンティティがあります。堪えるから、つらいから、もっと変わろうと、もっと強くなろうと思うのだと思ってきたのだと思います。だから、それはそれで良いのだとは思います。しかし、ある意味昔の生徒たちは踏み台となっているから、そのことを仕方がないことだと片付けずに、忘れずにおこうと思っています。ぼく自身の成長が間に合わなかったから、できないことがあった。それはどうしようのないことかもしれないけれど、自覚していなければならないことだと思います。だかだから、今のあなたたちも、ある意味未来の生徒や未来のぼくのための踏み台であり、だからこそ、今自分の持つベストを提供しなければならない、と考えてきました。そう自分ができているかどうかは別問題ですけれども。

 これまでの授業で伝えてきたように、たった一つの答えや真実は存在し得ません。我々にできるのは、解釈だけであり、歴史のすべてが解釈でしかないように、我々の思う真実や信念も、絶対的正当性は持ちえません。だから、それを人に押し付けることはしてはならない。他人に迷惑をかけない限り、人によって真実・信念が違い、人によって考え方が違うことを許容する世界が、今我々の生きる時代です。いや、きっと昔からずっとそうでした。しかし、そのように思うことに到達できなかった、そのように思うことが許されない時代が近代と言われる時代であり、前近代だったのだと思います。だから、ぼくが伝えた学習法も、勉強との付き合い方も、そしてアドバイスのすべても、たったひとつの正解、真実ではありえません。それはぼくの思う「真実」であって、それをあなたたちそれぞれに合わせてコーディネイトしたとしても、必ずしもあなたたちにとっての「真実」になるとも限らないものです。もっと言えば、先に言ったように、そのぼくの思う「真実」すらも、数年後には変わっているかもしれない。もっとよい知恵が見つかって、それを伝達できるようになっているかもしれない。もっともっと極端に言えば、今思う「正解」が、未来においては間違いだったとわかるのかもしれない。極端な言い方ですが、これは厳然たる事実です。たった一つの真実や答えはありません。ということは、真実は変わりえます。真実に到達できなかったのではなく、真実事態が変質しうるのです。たった一つの真実を求めて探してしまう近代的発想は、言い換えれば真実と嘘の極端な二分法によってものごとを位置づける考え方は、多くのチャンスや出会いを逃してしまいます。すべての事象は、白か黒かの二分法によって分けることができないものです。白から黒へとなだらかに続くグラデーションの中に位置づけられるものです。完全な正しさなど存在しない。同様に完全な嘘や完全な悪も存在しない。すべての事象やすべての意見・考え・認識は、正しくもあり、間違いでもあるのです。そのぶつかり合いが、現実に起こる衝突や摩擦で、その極端なものが戦争です。どちらかが間違っているから戦争が起こるのではなく、たとえその程度に差があるにしても、正しさと正しさの違いの衝突が衝突であり戦争なのです。だからすべては仕方がないのではなく、こういった視点から考え直さなければ、ぶつかりあいの本質的な改善はできません。

 大分ずれましたが(笑)、そういうわけで、本題に戻れば、君らの、我々の合否の結果は、すでに流れの中にあります。我々にできることは、その流れにちゃんと乗り続けるだけです。自分の作ってきた流れに自信が持てるならば、自信を持って本番に行きなさい。きっと、あなたの望む大学名が、大学入試の結果として得られるでしょう。もし、それが得られなくても、その先には、あなたを待つ、あなたに必要な出会いがあります。人生とは、そういうものであり、そう思えなくなければ、必ずそうなります。だから、怖がる必要はない。受かるべくして受かるでしょう。さもなければ、行くべきところに自然と導かれるでしょう。その未来にいけるかどうかは、その未来を受容できるかどうかだけです。

 この一年間で、もしかしたら今までの人生全体で、自分の作ってきた流れに自信が持てないなら、その流れを受容して諦めなさい。たとえこの一年がんばりきれなかったとしても、あなたの人生の中では、実はすごく価値のあることなのかもしれない。しかしあなたはそう思えず、「まだまだやれたのに足りなかった」そう思うだけなのかもしれない。言い換えれば、自分の作ってきた流れが、実はすごくよいものなのに、それをそのように認識できないだけなのかもしれない(下記の理由=自信の持てない構造を持っていることによって)。たとえ、今年一年を客観的に判断しても(そのようなことは誰にもできませんが)、よい流れが作れていないとしても、ならばそれを受容し、その後に活かすしかない。じたばたしても、不安に満ちてもがいても、結果は変わりません。だから、「ここまで一年精一杯はやれなかったのだから、できるだけのことを残りの期間やって、それで出た結果を受け入れよう」と、そう思ってください。つまりは諦めましょう。その諦めが、心の平静をよび、本番力になるでしょう。そのように、ポジティヴに諦めることこそが、心の強くない人間が本番力を持つ最善の方法です。

もし、あなたが十分がんばってきたのに、自信を持てないならば、それはそういう人生の中にいたからです。つまりは、今までの人「間」が、今までいた人間社会の関係性が、あなたに自信をはぐくむものでなかったからです。一言で言えば、こころが弱いから、精神的成長度が高くないから、だから被害妄想に囚われてしまい、すべてを悪く取ろうとしてしまうのです。被害妄想も、最悪の未来を想定することも、自分の弱いこころを守る防御反応です。よい未来を想定して、逆にそれが悪かったら、ひどく傷つく。その傷が痛すぎるから、その傷に耐えられないから、だから悪い未来を想定して、逆にそれがよかったら喜ぼうと考える。これは悪い考え方ではなく、自分の強くないこころを守ろうとする自然なことです。しかし、それが癖になると、そこからなかなか抜け出せない。痛かったり、苦しかったりすることには誰しも出会いたくありません。しかし、「失敗は成功の母」であり、かさぶたがとれて傷が治ったときにそこが少し強くなっているように、我々は苦しみと痛みを乗り越えて強くなり、成長できるのです。強くなりなさい。強くなろうとしなさい。ただそれは強がって無理をすることではなく、弱い自分を認めてそれを認めた上で、その弱い自分と一緒に付き合って一緒に成長していくことです。これもぼくが最後に伝えるべきことだと思います。「強くなければ人を殺してしまうんだ」、そうドラマで言っていました。「人を殺してしまう」はそういうドラマだったからであり、極端かもしれませんが、ぼくもおおむね同意します。強くなければ、優しくあることも、何かを守ったり貫いたりすることもできない。弱さが、自分を優先させてしまい、自分を守ってしまう。自分のことで精一杯であれば、人に何かを分けてあげることもできないものです。たとえ何かを貫きたくても、それは強くなければできない。だから、人に優しさを分けられるかどうか、自分を貫けるかどうか、大切な人を大切にできるかどうか、それは意思の問題である以前に、それができるかどうかという、能力の問題なのです。この受験を機に、強くなる経験を培っていく生き方の糸口をみにつけられれば、リスクを恐れず、傷つくことを恐れず、ある程度まっすぐに進むことの意義と楽しさを覚えることができれば、それはなににも変え難い貴重な一歩だと思います。

 それでも、やっぱり怖いなら、不安なら、その不安を否定することなく、それを仕方のないものだと捉え、共存の道を模索していきましょう。今の自分の人「間」の構成では、それ(どう考えを変えようとしても、やはり不安から逃れられないこと)が仕方のないことなのだと思います。ならば、その不安とともにがんばりなさい。泣きながらでも勉強すればいい。不安に満ちて眠れないならば、むしろ勉強時間が増えたと喜びなさい。次の日が入試でも、メガシャキを飲めば6時間は持つでしょう。一見マイナスなものを、むしろプラスに捉えること、不安に満ちているからこそ、弛緩することなく、最後までがんばれるんだと考えるようなこと、そこにまず行き着きましょう。その不安に満ちていることも含めて、それが運命であり、必然であるならば、その不安に満ちたままの、不安を抱えたままの最後の入試を、それでも戦い抜くこと。それは不安を否定して、そこから目を背けることではなく、もうそれを仕方のないものとして、受容して混ざり合っていくことです。それでも必然的な未来には辿り着けます。それが必然なのだから。

 我々人間は、生物学上のヒトとは大きく異なります。人「間」であり、我々は社会的生物です。社会的とは、関係性の中で生きている、ということです。関係性とは、間柄であり、その間柄によって、我々は規定されています。あなたたちは、「自分」という存在というか意識を、どのようなものと捉えていますか? 多分、あなたたちが「自分」と思うその意識は、近代的自我というものです。何かを選択するとき、この一年の結果や努力、それはなにによってもたらされているか。それが「自分」によって選択されている。「自分」の意志の力によって、自分の意思でやるかどうかが決まる。そういう意識が、近代的自我の発想です(ググッて、さらには大学で学んでください)。しかし、その自分を構成しているものは何でしょうか。それは、親から引き継いだ遺伝的性格や遺伝的な思考回路、そしてそれを元に判断して選び取ってきた、今まで培ってきた人間関係から得た影響、よく考えれば、それらはすべて「自分」でないものです。言い換えれば、我々が「自分」と捉えているもののすべては、実は自分以外の他者からえたものによって構成されています。だから、今「自分」と意識しているものも、自分で構成したわけではない。自分が選び取ってきたとしても、その選び取り方の判断は、今までの人「間」によって決まっています。

 だから、たとえ何をしたとしても、それがプラスのことであれ、マイナスのことであれ、ある意味自分に全責任はない。今までの自分の関係性、すなわち人「間」の履歴によって自分は構成されるのだから、仕方がない。そう考えると、すべてが仕方のないことのように思えてきて、変えることができないもののように思えてきて、我々が培ってきた努力やこれから未来を変えようとする意思すら無意味に思えてくるかもしれません。しかし、それはネガティヴシンキングです。あなたのなかにある人間の履歴としての力、それを使おうとするかどうか、それを活かそうとするかどうか、それを混ぜたり伸ばしたり更新したりしようとするかどうか、そこに今の自分がいます。言い換えれば、今自分が「自分」と思って認識している主体には、選択権があります。自分だけの何かなんてなく、我々はまわりの人間の分かち合い、合成なのです。でも、「自分」と思う意識、「自分」と自分が定義するものは、確実に存在します。そしてその「自分」は、近代的な自我発想の自分ではないですが、自分だけが意識できる、自分で自分だと感じる「自分」です。その「自分」には、選択権があります。どの人間とつながり、どの場を共有し、どのように時間を使っていくか。どこに人生の重きを置くか、それは「自分」の選択です。あなたたちがこれから主体的に、しかしある意味では必然的に、運命的に選ぶことでしょう。今の自分さえも、過去の人間の履歴に影響されて存在します。しかし、我々は、そこだけは、自分の勇気と意志の力で、前に踏み出すことを選択できる。自分の過去で見ても、たくさんの生徒たちを見てきても、そう確信できます。でも、そう感じないけれども、それも必然の流れの中にあるのかもしれない、そう言いたいのです。

 我々は過去の人間の履歴によってなっている。だから、ぼくの選択は、「ぼく」がしているのではなく、過去に出会った大切な人たちの総体が、まさにぼくの「人間」の総体がそのように選んで、そのように背中を押しているのです。だから、ぼくは自分の意思と理性の力で、自分を律して生きる必要はないし、そのような意識で今は生きていません。過去の人間の履歴の総体が、今まで出会ってぼくを大切に思って「人間」を分けてくれた人たちの総体が、選択し、がんばり、まさに生きているのだと思います。だかだから、「ぼく」自身が生きているのではなく、「ぼく」は生かされている。ぼくが人に感謝されても、人に恨まれても、それはぼくの功績・責任である部分もあるけれども(それを使って前に踏み出したかどうかという意味で)、同時に、ぼくという人間の総体の功績・責任なのです。その認識にたどり着いたぼくは、なんていったらいいのでしょうか、とげとげしていない日々をすごすことができているように思います。そしてこれが「真実」だと確信して、このように書いているわけです。ただ、自分が大切に思う、今の自分を構成している「人」たちががっかりしない生きかただけはしたいと思っています。過去の総体たる今の「自分」という「人間」を大切に思うならば、簡単に言いかえれば、過去に大切に思った自分に影響を与えてきた人たちを大切に思うならば、その人たちに笑われないように、その人たちに見られてもほめてもらえるように生きたいと思っています。

 残り30分の電車の中で書いています。昨日の夜中に、書くと決め、そこからダッシュで書いているわけですが、よって不完全でつたないものになっていると思います。また、最後に言いたい、言うべきことの50%もかけていない気もします。そのあたりが残念なのですが、それも含めて運命なのだと思います。ほとんど時間がない中で書こうと思ったことも、今日の授業の予習よりも優先して、電車の中で立ちながらでも打ち続けていることも、それがあなたたちにどう受け取られ、どのような意味を持ち、その反応がこれからのぼくにどのような影響を与えるかも、すべて運命的なことがらなのだと思います。もっと言えば、あなたたちそれぞれとぼくが今年時間を共有できたことも、それがプラスであったのかどうかは人によると思いますが、それもあなたたちの人生の流れの中での、さらにはぼくの人生の流れの中での、必然なのです。だから、気張る必要はない。なるようになる。がんばってきばって生きる必要はない。なるようになる。諦めずに捨てきらずに続けていけばそれでいい。それでなるようになる。無責任に聞こえるかもしれませんが、そう思っています。そして、そのような思いが、ぼくの中の今年の「真実」です。

 このような考え方は、受験生活というものをある意味否定するかもしれません。自分の努力と意志の力で、学力を捻じ曲げて合格しようとするそれは、「なるようになる」とか、「仕方がない」とかいう考え方になじみません。だから、ぼくは一年間演じてきました。近代的に生きろ、と、正しく生きろ、と、こういう考え方(非近代的な)はおろかで間違っている、と。しかし本当は、間違っていてもいいのです。その間違いからしか学べないこともある。失敗からしか学べないこともある。成功の連続は、人間を間違えさせる麻薬のようなものです。だから間違ってもいい、負けてもいい。でもそれは受験になじまない。なぜなら受験は、たった一つの正解を求める、たった一つの価値基準(数字)によって判断される近代的なものだからです。

 すべてはこれでよかった。前に出る勇気のなさや、甘えや過度の自己防御による、“出会いの機会の逃し”はもったいないですが、そういう考えのなかにぼくはいます。極端に解釈される(近代的2分法によって)と悲しいですが、これこそが今思っていることです。だから、この文章を書いて渡したことも、そこの一人称を「ぼく」として書いたことも、そのことによって、甘ったるい文章になったことも、時間に追われて、読み返して構成する時間がなかったことも、だからきっと間違った表現になっているところや悲しい感じになっているところがあることも、全部それでよかった。むしろその方がよかった。

 一年間、我々は時間を共有しました。それは、あなたたちの「人間」の中にぼくや増田塾の先生や事務の人々がはいったということであり、逆に言えば、ぼくという「人間」に、あなたたちが入ったということです(どちらも大きな%ではないかもしれませんが)。だから、一人孤独に不安に思うことはない。あなたたちの合格を見れば、ぼくもうれしいですし、逆に不合格を見ればかなしいし、感情移入していればいるほど(そこに程度の差はあれ)、傷つくと思います。へこむとおもいます。いや、過去を思い出せば、確実にへこんでいました。だから一人ではない。われわれは、多くの割合ではないかもしれませんが、いや、この入試に関しては多くの割合を共有していて、言い換えればつながっている部分を持ちます。スポーツで控え選手が試合に出なくても一緒に戦っているように、我々も、君らの受験を一緒に感じて生きています。そのように思ってもらえると、そのことを思い出してもらえると、少し元気が出ると思います。あなたたちの背中を押しています。アストラルの世界のつながりで。

 一年間という時間を共有できたことに感謝し、最後までつきあってくれたあなたたちに感謝し、そういう時間を持てたことをうれしくおもっています。ありがとう。難しいかもしれないけれど、最後の入試の時間を楽しんできてください。ミスをしないように丁寧に、できることは全部やりつつも、あとは天に任せて諦め、それを受け入れる姿。やるだけやったら、あとは自力ではどうしようもないという諦め。残りの時間、そのような意識でがんばれば、最善の結果が出るでしょう。君らの一年間のドラマの最終章を、それがどのような形であったとしても、共有してみられることをうれしく思い、楽しみにして見ています。実力で負けてもいいから(運命です)気持ちで負けるな!!弱い自分をつきやぶれ!! ふぁいと。 ゴールの先で待ってるよ。

                                     2010.1.21 藤原 貴浩

                                       2011.12.8 に翻訳(笑)

難関私大文系予備校「増田塾」の元教務部長。 現在はオフィス藤原を運営しつつ、増田塾に現代文・小論文講師として出講している。