およそ10年前の自分の言葉を発掘しました(その2)。その1と似た感じですが、その1年か2年後の「増田塾だより12月号」(2012年?)に掲載したようです。今となっては恥ずかしいですが、何か伝わるかもしれない、と思って載せます。同じようなことでも、言葉が違う方が伝わると思うからです。
最近面談をしていて、勉強が手についていない、地に足をつけて受験に挑めていない、と感じる生徒の話をよく聴きます。その原因は、「プレッシャーにやられている」のですが、そのまま我慢するというか、耐えて粘っているだけでは、最後の2ヶ月の上昇も、本番で力を出すこともうまくいかないと思います。正直言えば、何を伝えたらそこをうまく改善できるのか、何か伝えることによって、君らにぷらすなものを作って渡せるのかわかりません。だからこの項目もうまく書けなかったら消してしまおうと今考えながら書いていますし、上記「およそ11月号に載せてしまったので、再掲は避けます」の一言でいいかとも思います。11月号には、それなりなことが書いてあると思っているので、それでいいとも思えます。
でもどうしても、不安に縛られてしまう、怖くて縮こまってしまう人たちに、何か力になってあげたいと強く思います。なぜならば、すごくもったいないって思うからです。一生懸命がんばって、前を向いて受験に懸命に挑もうとしているのに、なのに怖くて戦えない。それは、強い人から見れば、がんばりきれない言い訳だ、とか、本気じゃないからだ、とか、気合が足りないからだ、とか、そう捉えられるものだと思います。それは正しい考え方で、そう捉えられることに不満を感じてはいけません。大人の社会では、そういう弱さにつきあってくれるよりもずっと、そうネガティヴに捉えられて、見捨てられていくことのほうが多いからです。
君らは、こどもとして守ってもらえる段階から、一人の大人として扱われる段階へのギリギリの過渡期にいます。およそ大学生になれば、君らの自意識(=自覚)も、周りからの要求も、家族の目線も、君らを大人扱いするものになると思いますし、なるべきだと思います。だから、今年が最後です。よく教えている生徒に言いますが、この大学受験の一年が、君らが何かを教えてもらうことができる、学ぶことができる、守ってもらえる最後の一年です。守ってもらえるということは、言い換えればだめでも付き合ってもらえる、ということです。
大人の社会において、ダメでも付き合ってくれる世界は少ないです。それよりもずっと、極端に言えばだめなら捨てられて交換される世界が多いのであって、君らの両親は、そういう世界の中で君らを守り、君らの受験費用を捻出しています。ぼくもこどものころはそういうことをわからず、ずいぶん親になめた口をききましたが、今では親に、経済面で深く深く感謝しています。自分が社会に出て、つらかったり苦しかったり、自分で正しいことをしていると思っているのにそれを曲げてあやまらなければならなかったり、自分のアイデンティティとも信念ともいえるところをも曲げなければならなかったり、そういうことを体で味わって初めてわかったことです。一体、うちの親はどれだけのことを乗り越えて、どれだけの苦しい思いをして家族の生活を守ってくれていたのだろうと。私の父は、そのような苦しさやつらさをもらしたことはありません。でも、それがなかったわけはない。自分が社会に出てみて、そう実感します。だから、ありがとうと思っています。
みなさんはどうですか? 親や皆さんを支えてもらっているものへの感謝を意識していますか? 意識できているとしたら、ましてやそれを口に出して言えているとしたら、そしてそれらが形式だけのものではなく想いとしての実質を伴うものだとしたら、ぼくよりもずっとわかっている人間だと思います。世の中の道理や筋を、ちゃんと分かっていると思います。そして、4月から書き続けてきたように、それが社会で成功するための、一番大切なときに力を出せるための、もっとも必要なものです。たくさんの大切な人との共有が、最後のゆうきを生みます。ここ一番での、いい意味での開き直りをうみます。怖くて不安でしょうがない夜の心の支えを感じられます。この大学入試に挑んでいる一年は、周りの人々は、少なくとも先生やスタッフは、本気でみなさんのことを大切に思っています。ましてや、この文章を読むところまで塾を信頼してくれているのであれば、たとえ多少舐めたり迷惑なことがあったりしたとしても、こちら側は大切に思って守りたいって思っているとおもいます。だめでもいいんです。一生懸命に、それが多少間違っていたり愚かであったりしても、そんなのはこどもなのでしょうがないので、懸命に戦っていれば、挑んでいれば、挑めなくても挑もうとしてがんばっていれば、そんな姿が周りの人を動かすのです。こういうのが、最近数年でぼくが理解した一番大切なことで、君ら後輩に伝えたい、伝えるべき一番大切なことだと思っています。
大分脱線しました。伝えたかったのは、そういうわけで何かを書きたいって思ったということだと思います。何かを書いて伝えたい、不安と恐怖で止まりがちになりながらも前に進みたいって思っている人をなんとか助けてあげたい、それをこの文面でできないか、それができるのが自分なのではないか、そう思って書いています。
みんな怖いんです。大人でも怖い。たとえば、完全な私事ですが、ぼくは次年度の生徒募集の責任者に立候補しました。募集や広告の戦略、そういったものの企画と実行の責任者として決裁権を委ねて欲しいと社長にお願いしました。一年の塾運営の大切なところで、大きな責任が自分の肩にかかります。だから正直怖いですし、できるならやりたくない、というのが自分の正直な気持ちなのかもしれません。だから、立候補するかどうかすごく悩みましたし、いろいろな人に相談したり愚痴ったりしながら、少しずつ背中を押してもらいながら、自分で退路を立ちながら、ようやく決意できました。しかもそう決意して、宣言したはいいけれども、正直なことを言えば今も、うまくいかなかったらどうしようとか、自分にそれができる力があるのだろうか、とか、結果で出せなければ意味が無いのに結果で出せるのか、とか、そういう弱さに苛まれます。そうやって悩んで止まってしまい、なすべきことに手をつけられず先延ばしにしてしまい、ちゃんと向き合えない時間が生まれます。だからこれを書いている今も、なぜか授業前の朝6:00です。
人間ってそういうものだとぼくは思っています。そんなに強くて割り切れて前を進み続けられる人なんていません。前に書いたかもしれませんが、大分前にMARCH以下を全落ちして慶応文に受かった女の子の生徒がいました。しかも世界史が苦手だったので、慶応は無理だろうと考えて、慶応志望だったのに慶応は一つだけしか受けていませんでした。そして、受験前半のMARCHを落ち続けているときいたので、心配になって彼女に会いに教室に行きました。激励しようと、へこんでいるだろうから、そこを前に向かせようとそう思っていきました。
しかし、彼女は廊下ですれ違いながらぼくに言いました。「伝説を作って見せるから見てて!」と。MARCH全落ちしてそれでも早慶一つだけ受かってくるから見ててよ、とそう言いました。ぼくは彼女の顔をじっと見ていました。それがただの強がりならば、何かしてあげないといけない、と思ったからです。でも彼女の顔と動きは違いました。だからぼくは、見てるから生き様見せろよ!、と伝えてそのまま帰りました。
その彼女は、慶応よりは受かるはずの早稲田も全落ちして、なのに慶応文だけ受かりました。実は縁があって、ぼくは彼女の中学1年から3年のときに、別の塾で教えていました。だから、彼女がどれだけよわっちくてどれだけ怖くて痛いのか想像できました。中学生当時は、クラス落ちとか、何か傷つくようなことがあったら親になきついて、クレームを入れてくるような子でしたから。だから、受験が終わった後問いました。あの時はどんな心境だったのか、と。本当に恐怖も不安も無くて前だけを向いて戦ってられたのか、と。そのとき彼女は言いました。
「不安だったし怖かったと思う。でもそれを認めてそこに浸ったら、口に出して泣いてしまったら負けだと思った。ただ強がっていただけなのかもしれないけれども、強がっていたら背中を押してもらえるように感じた。結果はたまたまの幸運だったと思うけれども、たとえ結果がどうであっても、私はいい一年だったと言えたと思う。こういうのも教えてもらったことだと思う。私は変われたかな。」
そうぼくに言いました。ぼくは泣きました。かっこ悪いのでちょっとだけですが我慢できませんでした。ぼくの人生の中ですごく大切な時間と言葉になりました。ぼくの人生で数えるくらいの、意識を飛び越えて心の底の奥の方から持っていかれた瞬間でした。でも、もう就職したはずの彼女からの連絡は大学進学後まったくありません笑
恐怖も不安も無くて、弱さを感じずに前を向き続けられる人間なんていません。前にも書きましたが、たとえば嫉妬心とか劣等感とか、そういう「愚かな感情」にまみれて生きるのが人間です。でも、それでも、そこに居続けて慰めを待ち続けるのか、ただ弱い自分を慰めあったりごまかしたりして生きるのか、それとも、そういう弱い自分は認めても、そういう弱さを引き連れながらも前に進もうと思うのか、それが人生の分かれ目なのだと思います。
不安や恐怖、そういうプレッシャーを感じてしまうことも、その大きさゆえに立ち止まってしまうことも悪いことではありません。でも、それでも、どうしても前に進みたい、勝ちたい、受かりたい、そういう想いが自分の弱さに負けない強さをうみます。いや、正しく言えば、負けながらも戦い続けて前に進み続ける力を生みます。
前に進もうと思っているのに気持ちで負けて止まってしまう後輩へ。
よわっちくても、うまくいかなくてもいいんだ。そんな自分を認めて、そんな自分と一緒に傷つきながら成長していこう。そんなだめな自分を否定して、もっと違う自分にもっと強い自分になろうとするのではなく、今ある自分と一緒に、その欠点も感情的な弱さも含めて一緒に戦って走りぬく。そんなに完璧にうまくはいかないよ。それでも最後まで走りぬいて、最後まで諦めずにやり抜くことが、君の成長と今後につながる。そういう意識が最後の強さを産むんだ。
今後じゃ意味がなくて、この受験での成功こそが意味があるんだよ、と反論するのかもしれない。でも、大切なのは何かな。たとえば、いい就職をすることとか、あなたがいい人間になること、いい人間と出会うことなんだとするならば、そのために必要なものはこの大学入試の成功よりもずっと、あなた自身が成長することだ。だから、一年間ずっと言ってきたように、この傷つきうる数少ない機会である大学入試を成長の場と捉えて、失敗を恐れて縮こまることなく、残りの一ヶ月を過ごしてほしい。楽しんでほしいけど、そこまでポジティヴになれなくてもいいから、精一杯味わってほしい。それが今後の成長の糧だから。
みんな強気なつらをしていても、その薄皮一枚の裏では怖いんだよ。でも、強いって言われている人は、そういった感情を、勝負の一瞬だけそっと横に置いておけるんだ。怖いのは当たり前だ。受験の結果というものに否定されるのも、その結果を見た周りの人々に残念に思われるのも、それは全部怖い。でも、ここまで来たんだから、もう逃げないでしょ? ならば怖くたって戦って、そして戦いの結果を受け取るんだよ。覚悟を決めて前に出るんだ。
前を向こう。テスト中とか勉強中とか、うまくいかなくて怖くなったら、不安に襲われてどうしようもなくなったら、斜め30度前方を、上目遣い気味にじっと3秒みつめよう。ちょうどホワイトボードの上のはしくらいの角度。そして唱えるんだ。
「この目の前のテスト(or勉強)一つに集中しよう。不安は横に置いておいて、これが終わったらまた休み時間に不安になろう。まずは目の前のことを一つずつ片付けて、その先のことはそれから考えよう。」
それでもだめなら、イメージしてください。まず、目の前に箱を手で作る。小さいころに、「これっくらーいの…」ってあったでしょ。その箱を両手で象る(かたどる=形を手でイメージする)。そして、目を閉じながらその箱の中に不安や恐怖を詰め込むことをイメージして。そしてこう心の中で唱えなさい。
「このテスト(or勉強)が終わるまでここでじっとしていて。これが終わったらまた一緒に不安につきあうから。」
そう言って、その象った箱の横を両手で持って、目の前の机の左に置いておこう。そしてこうイメージせよ。
「オレは試験を解くマシーンだ。マシーンに感情はない。マシーンは作り上げたプログラムで目の前の問題に挑むだけだ。試験に気持ちはいらない。ただ集中して力を出すだけだ。それ以上のことはない。」
勝負事のすべてにおいて、最後は気持ちの勝負だ。実力で負けてもいいから気持ちで負けるな。そうは言ってもそれでも負けてしまうなら、一瞬負けてもいいから、負けていても諦めるな、心折れるな。すぐに切り替えてまた前に歩き出せ。不安や恐怖とともに、うまく付き合って戦い抜け。しかし本番は気持ちをできるだけ薄くして頭でクールに燃えよ。本番は気持ちが邪魔になる。気持ちは朝とか夜とかに燃やして、本番の時は理性で燃えよ。きっとできる。その訓練をできるだけの時間はまだ十分にあるよ。