何かを書かねばならない衝動に突き動かされ

2024.6.22 まだ動き始められない。きっとそれは、まだ時と環境が満ちていないからなんだと、自分では思っている。だがそれは、ただの甘えで逃げなのかもしれない。

最近、産後うつならぬ、授業後うつ、を感じる。授業に全放出するからだろうか、自分が衰えてきたからだろうか、自覚できるくらい毎回、授業後にネガティヴシンキングにやられるようになった。

偶然の中に必然が潜む。いや、偶然に見せかけてあるべき必然が現前する。我々は、その偶然を手に取るか、それともスルーするか、選ぶことはできる。しかし、きっと公平に、いや、過去の履歴に見合うように、偶然の贈り物は届けられるものだ。

少し前から、何かを書きたくなりつつあった。しかし面倒でもあった。何かを書かねばならないような気もした。しかし、それはだんだん大きくなってきている気もする。

きっと、持っている以上に無理してすべて放出してきたのかもしれない。自分では、まだまだで、もっとできる、としか思えないできたが、毎年、受験が終わる3月から数ヶ月、元気がなくて最低限しかできない。そして、加齢して体力も精神力も落ち始め、無理が受けとめられなくなってきたのかもしれない。

いや、これらもきっと、ただ甘えているだけなのだろう。自分が自分にそう言うのだし、舐めプきめているだけなのかもしれない。

昨年度、うれしい偶然のできごとがたくさんあった。もしかしたら一昨年度だったのかもしれないが、10年以上昔の、大切な人達から連絡をもらったりした。でも、同時期の大切な師が亡くなった。きっと、先生としての自分にとっての根っこにいた人だったのだと思う。

今、何年ぶりかに、昔見た大好きだっただろう、ドラマを見ている。たまたま、キムタクの最終回を見たあとに、偶然出会った。

「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」

この作品の脚本家、坂元裕二の作品が好きだ。坂元裕二が好きだと言ってもいい。

今、一話が進んでいる。ただの偶然の連続に見える中に、必然が含まれる。
それを手に取るか、それとも取らないかは、その人の選択だ。

ただ、その偶然は訪れるべきだ。その選択権は、見合う過去を営んできた人に、戦ってきた人に渡されるべきだ。

そして、障壁を乗り越えて選ばれたなら、それが偶然であっても応じなければならない。
その相手の支払った誠意や熱意に見合うもので応じなければならない。

なぜならば、自分もたくさんの人にそうしてきてもらったのだから。

 

きっとこれは、自分への激励なのだろう、と思う。

だが同時にそれは、周りの人達からの援軍が満ち足りて、挙兵できるように成ったからなのかもしれない。
また同時に、負った傷が癒えつつあるのかもしれない。誰から傷つけられたわけでもなく、勝手に負った傷なのだが。

今日、久しぶりに動画の撮影をした、ような気がした。すごく適当に、なんとなく取ったショート動画だが、きっと何かが動き始めた、のかもしれない。そう言いつつ、まだ止まっているのかもしれない。

でも、何かを書き始めることが、第一歩なのかもしれない、という6.22。

難関私大文系予備校「増田塾」の元教務部長。 現在はオフィス藤原を運営しつつ、増田塾に現代文・小論文講師として出講している。