2024.6.23

昨日久しぶりに記事を書いたら、メールが来ていた。もちろん、記事を書いたこととは無関係である。

はるか昔の卒業生の彼は、社会人になってからたまにメールを送ってくる。メールの履歴を辿ってみたら、それは2018年から続いていた。いや、そのメールに、メールアドレス変えました、とあったので、もっと前からなのだろう。むかしむかし、増田塾が朝霞にあった時代の生徒。そしてその後、一度も会ったこともない生徒。

彼からのメールは、2018.6からの6年で、今回のものも含めて12通だった。およそ半年に一回のペースでメールが来る。そしてそれに返信すると、その応答はない。そしてまた、忘れた頃にメールが来る。

生徒時代、それほど自分に懐いた生徒ではなかった。そして自分も、仕事以上の何かをかけたわけではなかった。でも、当時に関係のある職場の関係で、いまだに繋がりがあるのは、多分彼だけだ。自分は人付き合いが上手ではないのだろう、といつも思う。

誰かとつながり、自分の希望や意思とは無関係に、つながり、失われていく。

自分の何がよくて、どこがだめなのかはわからないけど、だからこそ、自分にできることを、誠意と熱意を込めて作って渡していく。それが伝わるとは思っていない。でも、振り返ってみると、たしかにそこを受け取ってくれている人達がいて、その人たちは自分を理解してくれる、自分を大切にしてくれる人達なんだと思う。それが一時のことであったとしても。

たいしたものではないけれど、自分が社会的に評価されたり、人や出会いに恵まれたりしてきたとして、その根源にはここがあると思っている。

可能なラインでいいので、コスパを捨てて、有意義と思えるその場と人に尽くしていけば、必ず見てくれている人がいる。その場はコスパが悪く思えても、実はとてもコスパのよいことになるものなんだ。見て見つけてくれる人も同じように思っていて、仲間を探している。目を見張って、本物かよ、と試しながら、見つけようとしてくれている。そして、手を差し出してくれる。

もし、頑張り続けているのに手が届かないと思うのなら、アピールが足りないんだと思う。強く虚飾まみれにアピールする必要はない。ただ、自虐的謙虚さでは手を差し伸べられない。だから、少しだけ期待して、にっこりしてみよう。周りに少しだけでいいから、期待してみよう。少しだけ自分をアピールしてふるまいてみよう。そうできたら、そして目の前に尽くしていけば、必ず出会えるよ。

もろもろ一段落して自分も歩み出せたら、会いたいと言ってもらえる人達に、実際は自分が会いたいだけなのかもしれないけれども、声をかけてみようと思っている。きっと彼も、会いたいと思ってくれるだろう。多分。
きっとあと少し。動き出せたらきっとすぐに順調に回るんだと思う。でも、こうしてもがいている時間とそこで生まれる感情と言葉が、自分を深くして引き出しになる。だからこれでいい。

止まっている時間も、もがいている時間も、それが自分の深さになるんだ。今は苦しいだけで、何も生まないように見えても、ただ傷が増えているだけに思えても、その傷がなければ繋がれないことも、その傷が武器に成ることもあるから。

難関私大文系予備校「増田塾」の元教務部長。 現在はオフィス藤原を運営しつつ、増田塾に現代文・小論文講師として出講している。