【激励】2022入試に挑む受験生へ―2―

 先日、謎な差し入れをもらった。それは、3円だろうコンビニ袋に入ったペヤング焼きそば。しかも大盛りだか特盛り。カロリーは1000K越え。

 その生徒は、ふと休み時間にすれ違ったときに言った。記憶によると、

 「先生、ペヤング渡してあるので食べてください!」 こんな感じだったと思う。

 謎すぎて、考えてしまった。一体、このペヤングにはどんな意味、メッセージが含まれているのだろうか。なぜ、ペヤングなのだろうか。

 私の人間性の問題か、差し入れを生徒にもらうことなどほとんどない。あったとすれば、「これおいしいんですよ!」というチョコとかあめとか、その程度だがそれもほとんどない。たぶん、カップメンだかカップ焼きそばをもらったのは、講師人生で初めてだろう。しかも武蔵小杉校には、お湯の準備はない。持って帰って食べろ、ということか。

 かなりの異例の事態なので、その意味とか狙いとかを考えた。何か、とても困って助けて欲しいというメッセージなのかもしれない。それをこういう形でしか表せないのかもしれないとも、一応考えた。黄色い付箋紙が一枚貼ってあることに気づいた。そうか、これを読めばわかるのか、と思ったら、校舎スタッフの字で、○○さんからです、とあるだけだった。謎すぎた。

 翌々週くらいまでペヤングの存在を忘れていたが、ふと自分ボックスを占領している四角いやつに気づき、持ち帰ろうと決意し、折角だからその生徒に聞いてみた。

 「ねえ、これってなんでペヤングなの?」

 「私、ペヤング大好きなんですよ!」といいとこ私立の女子高生が言う。

 「へー。どしてこれくれたの?」

 「大好きだから食べて欲しいと思って!」

 情報は、以上だった。「なぜ大盛り?」とはきかなかった。この応答をそのまま言葉通り受け取れば、

① 自分の好きなものを紹介して食べてもらいたい ⇒ しあわせの共有

② なぜか、差し入れて元気づけたい気分になった ⇒ 応援

③ それ以上の深い意図とメッセージはない ⇒ そういう天然系の子

 もしやしたら、その辺で体調崩し、一週間休校したから元気づけようとペヤング大盛り1000K越え㌍を渡してきたのかもしれない。しかし、そういうギャグにしては、もう少し説明がないと伝わらない。そして伝わらないと、なぞに勘ぐってしまう。まあ、考えてもわからないので、そのまま真相は保留されるが。

 こういう、何の意図もない偶然の中に、必然は少しずつ宿る。ある意味、これは応答でもある。よく考えたら、私はこの生徒との面談で、やや深い哲学的な話をしたような記憶がある。それに対する応答が、ペヤング大盛りなのだ。どちらも何も意識をしていなくても。

 しかし、つながりは生まれていく。そしてそのつながりが何を産むのか、どのような必然につながるのかはわからない。ただ、面談で時間があったので、何か教訓・説法じみたことを語ったことも、ペヤング大盛りが帰ってきたことも、どちらも前には出た結果だ。

 面倒なことや傷つくかもしれないこと、disられるかもしれないことをすべて避けて通っていれば、楽で痛くない人生にできるかもしれない。ただ、それだと何も変わらず、ただルーティーンの、予想できる日々が連なっていくだけだ。

 それが悪いとは言わない。それで得られるしあわせの形もあるだろう。ただ、今君らが、残り4ヶ月で何かを変え、なんとなくではない未来を獲得したい、勝ち取りたいと願うならば、傷つくかもしれない覚悟を持って、前に出なければならない。

 失敗と書いて「せいちょう」と読む、と野村監督は言っていた。痛くて面倒なことを避けて、楽で逃避し続けて生きていくならば、大きな変化を望まず、今の延長線上の未来を受け容れて生きればよい。でも、変わろうと願うなら、このまままっすぐ進んでくる未来を、自分の意思の力と選択で、望む方向にねじ曲げようとするなら、このことをわからなければならない。

No risk, no fun.

 自分がもっとも好きな、大切にしている格言だ。楽で無難で安全を望むな。自分がいいと思うなら、その選択がリスキーであっても、そのリスクがとれる範囲に収まると予測されるなら、覚悟を持って突撃せよ。それがおまえの生き様だ。それがおまえが評価されてきた点だ。それがおまえのアイデンティティだ。

 そう、私は自分に言い聞かせて生きてきた気がする。面倒でかったるいな、自分に課せられている仕事ではないし、他の仕事が余裕あるわけではないし、任せてほっておきたいな、と私も思う。折角の休み、しかもヤクルト戦をリアルタイムで見れる貴重な時間を捨てて、やらなきゃいけないわけでもない仕事を、自分から前に出てやろうとする自分は何なんだろうと思う。君らのコスパ思想で言えば、当然やらない仕事だろう。そもそも自分の身分は外部職員なのだから。

 でも、自分が言い聞かせてくる。愚かで弱い、緩みきった精神とボディになっている自分は、楽で面倒じゃない方に、常に逃げたがる。そう、自分も同じ。みんな一緒だとおもう。それでも、過去の自分が説得してくるんだ。そして自分でもそう思うんだ。コスパ悪いかもしれないけれども、自分が評価されて今までやってこれた道は、この道ではないか。

 つまり、短期的にはコスパ悪いとしても、それは長期的コスパにおいて、むしろ逆によいものだったではないか。たしかに、今回もコスパがいいかどうかはわからないが、それがどうした。投資とは、そのようなものではないか。そしてそのリターンを十分に受け取ってきたではないか。

 このように考えることも結局コスパ思想だとするなら、自分もコスパ思想なのだと思う。しかし、今コスパコスパ書いていることは、自分にとっては後付けの、皆に説明するためのレトリックでしかない。自分の感じる実質ではない。

 「いいことしたら、巡り巡って帰ってくるものよ。悪いことしても同じ。ちゃんと帰ってくるのよ。」

 この、よく言われる前近代的哲学は、人間の世界における真実だと自分は設定している。自分は幼少期にこのような哲学を獲得できず、すれてすねた子どもだったが、大人になってこの仕事をしていくうちにわかった。宗教的な実質があるかどうかはわからないが、人間の世の中はこうできている。

 というわけで、残り4ヶ月、できれば今年のヤクルトのような感じで、ともにベターを尽くそう。君らは全力でベストを尽くしてかまわない。ただ、継続できない無茶を自己満でするのは、ベストではない。ただの自己満勘違い野郎だ。できる無理を継続し、痛んだら休憩とリフレッシュを入れながら、4ヶ月継続して、我々にできるベターを尽くそう。

 懸命にやったのに、惨めな結果になって何も返ってこなくて悲しくなる未来などない。やった分は必ず帰ってくる。絶対大丈夫。ここからがんばれた先輩たちもみんな言っていた。

「終わったときは目標まで届かずに悲しかったけど、ちゃんと返ってきました」

 懸命に走り始めれば、その一足に周りが同調し、援護射撃が来て、それがまたエネルギーになって次の力強い一足を生み出す。絶対大丈夫。やって無駄になることなんてない。

 間に合うかどうかなんてわからない。間に合うからやるんじゃない。やって間に合うならやります、じゃない。それでも前に進み出す勇気が道を作っていくんだ。それで失敗したとしても、その君が切り拓いた道は、君の人生も切り拓くだろう。よき出会いを君に導くだろう。自分から見た人生、人間社会とは、そういうものだよ。見ている人はちゃんと見ている。いい面も悪い面も意外なほどに。

 だから、ぶりっ子する必要はない。よく見せようとする必要もない。ありのままの自分をみせればよい。なぜならば、どうせ見抜かれてしまうのだから。わかる人にはわかるのなら、その場しのぎで今だけぶりっ子しても、格好を整えたところで、これこそ、どうせ無駄だ。ならば、ありのままでいい。可能な限り、ありのままでいたい。こう考えて生きてきたら、緩みきった、だらしないボディになってしまったが。

 そして、やった分は必ず返ってくる。たとえぶきっちょで、かっこ悪い前進でも、そのあなたの踏み出す一歩はとても価値あるものだ。ただし、継続しなければならない。世界はすぐに応答してくれない。しばらく我慢して、継続して、待たなければならない。もっとこうした方がいいかも、という工夫・改善をこらしながら。

 というわけで、これが今週の、残り4ヶ月の激励だ。うまくいかない日も、へこんで立ち止まる日もあるだろう。それでいい。ただし、すぐに切り替えて立ち直ろうとせよ。だれかの手助けを得てもかまわない。へこたれたら元気な人に元気を分けてもらって、また切り替えて立ち上がろうとせよ。終わったことは仕方ない。同じことはしないように改善点だけ考えて忘れてしまえ。まだある、残りの時間にすべてをかけよう。それを追求することのみを考えて、変えたい自分、変わった後の自分を想像し、へこたれて凹みそうな自分を説得しつつ、周りの助力を受け取りながら、ともにワンチームで走り抜こう。

 前に出てこい。

2021.9.29 藤原 貴浩

難関大 私立文系 予備校「増田塾」の元教務部長。 現在は、現代文・小論文講師として出講している。

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