受験生へ贈るメッセージ集―2―

大切な勝負のシーンでしくじってしまったあなたへ

 野球大好きなのだが、高校野球を見ていて違和感を持つシーンがある。

 致命的なエラーをして、そのあと泣き出す高校球児のシーンがそれだ。外野が後逸するシーンが多い。そしてそれを、アナウンサーが「美しい涙・青春の涙」と評するやつだ。

 起こってしまったことは仕方がないものだ。それが反省すべきものであれ、そうでないものであれ過去は変えられない。しかし、その「やってしまったこと」に対して、泣いて自己嫌悪する前にやるべきことがあるだろう、いつも球児にはそう思う。

 「やってしまった」「みんなに申し訳ない」「俺のせいで負けてしまう」「今までやってきたことが無駄になってしまう」そんな自己嫌悪にのまれて感情を制御できなくなる前に、取り返すチャンスがあるなら、そこに集中してすべてをかけるべきではないか。

 まだ打席が来るかもしれないのなら、そこで取り返すことができる。また打球が飛んでくるなら、そこでファインプレーでチームを救えるかもしれない。研ぎ澄まして試合を見ていたら、相手ピッチャーの癖に気づいてチームメイトにアドバイスできるかもしれない。

 まだ取り返すチャンスがあるのに、なぜ今の感情におぼれるのか。それは責任放棄ではないのか、ぼくは強くそう思う。次の打席が来る可能性があるなら、それを信じ、それが来た時に「ゾーン」に入って、奇跡の逆転打を打つ。そういうチャンスが回ってくると信じる。なぜそうできないのか。

 取り返しのつかない、取り返すチャンスのない「やってしまったこと」なら、へこんでいても、泣いていてもいいと思う。むしろ、一生懸命やった分だけ、そのあふれる想いは抑えられないものであってよいものだ。その涙は、とてもほんもので美しいものだと思う。

 でも、取り返すチャンスがあるならば、なぜ泣いているのだ。なぜ止まっているんだ。全部やりきってから泣け。試合が終わってから泣け。終わってから自己嫌悪せよ。周りに謝りたいなら終わってから謝れ。まだ試合中なら、まだピッチに立っているなら、まだ薄くても自分の出番がありうるなら、そこにかけよ。そこに爆発させるイメージをせよ。そこに向けて自分を研ぎ澄ませ。そして集中せよ。アドレナリンをその機会に爆発させるように集中してクレッシェンドをかけていけ。きっと来る。そしておれはそこでしとめる。取り返して見せる。そう意識を研ぎ澄ませ。

 君らでいえば、君らの試合終了は、受験終了の時だ。いや、実際のことを言えば、受験終了すら試合終了ではないが、それはまた今度でよい。試合終了まで、走り続けよ。へこんでいる暇はない。そのあふれる感情をプラスに活かし、最後まで戦い続けよ。

 もちろん、感情・気持ちは理屈ではないから、そして論理的なものでもないから、感じてしまい、持っていかれてしまう時があるのはわかる。それはそれでよい。でも、すぐ切り替えろ。その感情に浸って慰めを待つような自分の弱さは否定せよ。必ず、次の日には切り替えろ。あふれる感情はバッと吐き出して、バッと切り替えよ。吐き出し方は、愚痴るでもいいし、一人カラオケでもいいし、何か趣味に没頭でもいい。しかし、そこにも浸るな。できるだけ早めに切り替えろ。

 難しいのもわかる。そうしようと思ってもできないのもわかる。そしてまた自己嫌悪スパイラルに陥りそうになるのもわかる。でもね、ここはがんばりどころ。自分で説得し、人から力を少し分けてもらって、切り替えてがんばる、それしかないんだ。

 弱ったら、人に話すのは効果的。とりあえずチューターに愚痴ってみよう。きっと受け入れつつ、少しずつ導いてくれるだろう。ただ、愚痴や感情におぼれないように。それは一時で切り替えるべきものだ。

 最後に野村監督の言葉を。

「意識が変われば行動が変わる。行動が変わって持続すれば習慣ができる。習慣が変われば気づけば人生が変わり、運命が変わっている。」

 すぐには変われない。でもそのすぐを続けていって習慣にできていたら、気づいたら変われているよ。がんばれ、ぼくも被害妄想にまみれ、最悪のシーンをいつも想定して準備しているような、同じようなよわっちいやつだったよ。だから君らの気持ちも考えることもわかるんだ。でも、チューターもみんなそういうように、人間は変われるんだ。もとから強いんじゃない。それだけの過去を経てみんな強くなっている。だから、君もきっとやれる。まだまだ勝負はこれからだ。違うか?

難関私大文系予備校「増田塾」の元教務部長。 現在はオフィス藤原を運営しつつ、増田塾に現代文・小論文講師として出講している。