受験生へ贈るメッセージ集―1―

 これは、今年夏の終わりの、実力判定テスト(増田塾の模試)後の面談期間最終日に、生徒たちに配ってもらったもの(一部改変)である。その意味で、今年の自分の生徒用のメッセージではない。今年の生徒ではない、ここにたどり着いた人に、いいものが渡せるかもしれないと思った。こういう過去のものがたくさんあるから、それをバシバシ記事にして、激励していこうと思う。

勝負を分けるもの。本番力とは。

 受験の結果は、数字通り決まらない。言い換えれば、学力やそれを示す偏差値通りに決まらない。学力=成績的には上位の生徒と下位の生徒は、その差が一定範囲内ならば逆転しうる。

 よく言えば、学力が足りなくても、本番力があれば合格し得る。悪く言えば、学力が足りていても、合格できるとは限らない。

 昔、増田塾だよりを毎号書いていたころ、以下のような方程式で説明した。

受験の結果= 努力量(A) × 地頭の良さ(B) × 本番力(C)

 大切なのは、この3指標が掛け算で結ばれている点だ。本番力が極端に低ければ、どれほど学力(A×B)が高くとも、失敗し得るのだ。

 きっと今これを読んでいる君らは、コワっと思っただろう。しかし考えてみてほしい。スポーツだってそうではないか。金メダル確定的と言われて序盤で敗退した選手も多くいた。君らの過去で考えても、10%程度の実力差がある勝負なら、それは逆転していなかったか。

 ある程度の実力が備わっている勝負ならば、勝負事は、いつも実力通りに決まるわけではないのだ。そして、それは受験も同様である。

 本番力とは何か、そして残り時間で、本番力を鍛えるためにはどうしたらよいか。言い換えれば、受かるべき成績や流れを君らが2月に持っているとき、本番できっちりorなんとかねじ込んで勝ち切るためには何が必要なのか、それを伝えたい。

 もういまさらアピールするまでもないが、藤原担当校舎の合格率は圧倒的なものであった。どうしてそうなるのか、何が他の担当と違うのか、そこから伝えたい。この説明と、前記本番力の説明は相同的である。

 ラップバトル用語で、バイブスというのがある。自分の解釈だとそれは、熱さ、波動、勢い、ノリ、気合い となる。自分は、授業の時も面談の時も、できるだけバイブスを渡したい、分けたいと願って、意図して授業する。メンタルの強さも元気も、自分で獲得するものではなくて、人から分けてもらうものだ。だから、いつも分け続けていたい。

 もう一つ、できるだけ笑うタイミングが一回はあるように、といつも考えている。無味乾燥でルーティーンに陥りがちな受験生活において、「祭り」=非日常 は重要である。自分には、自分の授業を「祭り」にする力はない。だがせめて、ちょっとした笑いを提供することができれば、斜に構えてノッテこない生徒にも、高速で防御できないタイミングとスピードで、こらえきれない笑いをぶち込めれば、内側からほぐすことができる。リラックスして切り替えてもらうことができる。

 受験上の重要性が低い(ことの多い)現代文の担当として、自分に差し出せるものは何だろうと考えてきた。どうやったらもっと受からせられるか、もっといい時間をつくれるか、もっと変えてあげられるか、そう考えるのはちゃんと仕事をしようと思うなら当然のことだ。

 毎年、合否の結果を見て、昔は凹んでいた。全員がうまくいくことなどほぼない。担当している生徒全体で見れば、受かるはずなのに合格できなかった生徒は当然出る。こいつだけは絶対に受からせなければならない、そう思って力とバイブスを込めて指導してきた生徒の結果がうまくいかなかったときは、とても堪えて凹んでいた。

 当然じゃないか。自分の仕事に誇りを持ち、自分が有能だと思うなら、そう謳うなら、そうできないのはプロじゃない。ましてや君らは素人で、だからこそこちらを専門家、プロと考えて信頼を寄せる(みんなじゃないけど)。その信頼に大人は、社会は応えるべきだし、応えられなければプロではない。そう考えていた。いや、今でもそう考えている。

 事実は、受験は君らのものなのである。成功も失敗も、どちらも価値のあるものだ。人間は、成功より失敗から多くを学ぶ。目の前は、成功した方がうれしいししあわせに違いない。だが、過去を振り返ってみれば、失敗した方がよかったと思えることはないか。今年の受験における成功も失敗も、その成果は君らが受け取るもので、君らに責任があるものだ。

 ただ、自分からみると、その責任の多くは自分にあるように見てきた。これは間違っている。合否のキャスティングボードを第一に持っているのは、当然君ら自身である。ただ、自分は、自身の能力or誠意orパフォーマンス によってこそ、合否の結果は大きく変わるように見てきた。

 だから、毎年毎年、悲しいor申し訳ない不合格を味わう度に、「なにがいけなかったんだろう」「何とか受からせられる道はなかったか」「どうしたらこんなことを起こさずに済むか」「もっと差し出せるものはきっとあったはずだ」と、自問自答し、自責し続けてきた。もちろんこれも、間違った考え方である。

 しかし、そう考え続け、傷み続けていたとき、差し出せるものが見つかった。バイブスと笑い。それが、個としての自分が差し出すべきものだと見出した。よりよい授業内容や質問、相談応答はもちろん大切だ。だが、それ以上に大切なのは、バイブスを君らにぶち込み、分け与え、笑いで非日常を作る。そして受験への活力とエネルギーを回復させ、また闘志をもって挑ませる。それが自分の特性、他の先生との違いだと思う。

 もう一つ、本番力をつけて合格させるために、自分は伝道しなければならないと思っている。勝ち切る哲学を。

 ただ、これは、スポーツと同じである。私は、独走している5月だか6月に、今年の阪神は優勝できない、と考えてtwitterした。それは、阪神の野球に、「勝ち切る哲学」がないからだ。阪神の優勝する展開は、ぶっちぎりしかないと考えていた。そしてその可能性は大分低いと思っていた。事実現在、ヤクルト、巨人とほぼゲーム差なしで争っている。競り合いになったら、ものをいうのは、本番力であり、その根底にある哲学である。その内実は、さまざまなものがあろう。しかし、内実は必要で、それに見合うものが阪神には感じられない。

 現代文は、さまざまな考えや事実を君らと共有できる。その中でいろいろな考え方や捉え方を伝えることができる。だから、現代文の授業をしつつ、その出てくる文章内容の偶然性に委ねつつ、伝えるべき哲学をねじ込んでいく。

 それは、心痛いものであることも、今までのあなた自身を否定することになることも多いだろう。でも、それが必要なのである。痛いことは、失敗は悪いことじゃない。むしろ、それは何かを獲得するためには必要なものである。本当の知は、体験知である。伝聞知で対応できて失敗を回避できる人はとても優秀である。しかし、実体験を持つ知見とそうではないものの差は大きい。体で味わって初めてちゃんとわかるもの。それは間違いない真実である。だから、受験の成功のために、その過程において、泣いてしまうくらいの失敗や痛みを抱えることはとても大切なんだ。

 「勝ち切る哲学」とは何か。「本番力」とは何か。それを一言で語ることは難しい。それは、たとえば自責傾向であり、ポジティヴシンキングであり、謙虚さである。最後まで心の底では諦めずに粘って挑み続けられることであり、しかし同時に、最後は運命に身を委ね、だめなものはだめ、と諦められる覚悟、負けを受け容れる覚悟でもある。自分にできる追求すべき点、可変領域を追求し、しかし不可変領域によって仕方がないのであれば、それは受け容れるだけ、と覚悟できることである。近代合理主義的「もっともっと」思想であり、両極端にならずにグレーゾーンの中で粘り強くベストバランスを探し続けることである。己の弱さと残念さを認めた上で許せることであり、しかしその弱さと甘えに浸り続けることなく、少しの癒しで切り替えて再び戦えることである。過度な二宮金次郎思想に陥ることなく、己が弱って凹んでいるときには、必要な休息やリフレッシュを取り、そこに罪悪感を持たないことである。自分がだめなやつだ、そんな部分もある、と理解しつつ、それでも受験生としてはプロに近づこうとにじりよることである。過程を追求しきったところで結果は必ずしもついてくるものではない、とわかったうえで、それでも自分にできる過程の追求をし続けることである。

 何度倒れても、凹んで打ちひしがれても、少し立ち止まって整理して回復させ、再び力強く立ち上がって戦えることである。本当に強いってことは倒れない、負けないってことじゃない、何度倒れても雑草のように立ち上がってまた戦い続けることだ、ということを実践しようとし続けられることである。自分の違和感や疑問、不満を、ぶつけていいシーンではぶつけつつ、自分が信じると設定したものを、最後は信じられることである。結果がうまくいかないのが怖くても、その結果を受け容れる覚悟を持てることである。過程を自分なりに追求しきれば、その結果がどんなものでも悪いものにはならないはずだ、と確信できることである。自分が切羽詰まっていても、同じく周りの切羽詰まっているかもしれない人のことを、少し考えられることである。

 人生、なるようになる。なるようにしかならない。しかし、それは積み重ねてきた過去が無駄にならないものだと思って、本番に挑めることである。言葉だけでなく、むしろ表情や態度、背中のオーラこそが、大切なコミュニケーション手段であることを知っていることである。最後は自分で決めるしかない、自分で覚悟をもって選ぶしかない、それがたとえ失敗であったとしても、ということを理解していることである。その上で、専門家や先輩の情報やアドバイスをもらい、参考にしつつ最後は自分で決める覚悟があることである。

 たった一つの正解などない。白黒はっきりつく答えなどない。あるのは、具体的なその時、その状況に適合した、ベターな選択だけだ、ということを理解していることである。自分のことを慮ってくれた行動に感謝を表し、ちゃんと応答しようとできることである。挨拶、お礼といった礼儀作法の実質が、自分の中にあることである。傷つくことを恐れず、必要な修羅場に突撃し、傷んでもこれは成長に必要なものだと自分を奮い立たせようとできることである。

 思い浮かんだことをあげてみた。題材がない中で語るのはとても難しい。その意味で、現代文の文章が恋しい。文章を読みながら、少し自然な形で、こういったことを受け渡していきたい。そう思っている。

 昨年度はあまり結果を出せなかったが(まあまあ)、1月末に、自分にできることはやりきったから悔いはない、と思えた。それでイマイチな結果だったのは、コロナのせいで自分の持ち時間が2/3になったことと、自分の能力不足だろう。でも、結果は別として、やるべきことを躊躇せずに、軋轢を恐れずやりきれたことは、自分にとってしあわせなことだった。

 うまくいかなそうな生徒を見ているとき、まだ何かできることはないか、どうしたらきっかけを作ってあげられるか、と考えてしまう。もちろんいいことなのかもしれないが、繰り返すが、結局最後は君らがキャスティングボードを握っている。

 ぼくにできることは、できる範囲の時間とエネルギーで、ベター尽くす。ベストを尽くそうとすると、大体間違えてしまう。短期的な無理をする気はあるが、継続できない自己満の無茶はしない。継続できて、最後まで戦い続けられることが、何より大切である。

 ぼくは、自分がベターを尽くせたなら、その結果は成功していることを知っている。ベストである必要はない。自信もってベターと言えるなら、それを継続することが大切だ。なぜならば、イマココで終わらないからだ。バイブスと笑いと、そして自分の信じる哲学を分かち続けていく。

 2月を迎え、もうできることはなく見守るしかなくなった時、自分に納得と満足、そして覚悟が訪れるように、気付く細部に神を宿らせようとし、ベターを尽くしていく。そして、その時、結果がどうであれ、いい一年だった、自分としては満足、という想いが、君らと共有できる未来を願う。

 では、9月からの後半戦をスタートさせ、互いに、自分にできるベターを、君らはベストでも構わないが、尽くそう。あと5カ月。ここからだ。

2021.8.31 藤原 貴浩

難関大 私立文系 予備校「増田塾」の元教務部長。 現在は、現代文・小論文講師として出講している。

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