受験前最後のメッセージ(生徒配布メッセージ一部加工)

やあみんな。小論文担当っぽく、演繹的に結論から書く。

「すでに受験の勝負はついている。進学先は決まっている。あとはそこに辿り着けるかどうかだけだ。」

 藤原です。一年間こんな極端な、悪く取ろうと思えばいくらでも取れる、悪意なく人を傷つけることは相手が耐えられる限りいいことだと信じている自分を否定せずにいてくれてありがとう。折角の文面で伝える機会なので、何か君らの力になれたら、なりたいと思って全力投球で書きます。ずびし。

 ここまで逃げきってしまうことなくがんばり、そして入試直前を迎える君らに伝えたいことがある。

「ここまで来たら入試の結果は必然的に決まって待っている!」ってことと、「最後の勝負を分けるものは、わずかな実力の差ではなく、気持ちだ!」ってことだ。いつも通り長文を極めるけれども読んでほしい。

先日なんとなく付けたテレビで、こんな言葉が聞こえてきた。

「受験はメンタルで90%決まる!」

この言葉を、受験の合否は90%メンタルで決まり10%しか学力では決まらない、という意味だとすれば、この言葉は明らかに間違っている。しかし、合否結果はメンタルで90%決まる、変わってしまう、という意味だとすれば、この言葉は正しい。

今回の共通テストでも、驚くくらいの良い数字が出た生徒も、逆に思いのほか悪い結果の生徒もいる。偏差値や得点の数字は、調子や適性によって上下するもの。成績が出なかった人は落ち込む必要はなく、その不調の「原因分析と次への改善策あぶりだし」を行った上で、その結果を忘れてしまおう。数字は上下するもの。現状の実力を正確に表すものではない。

いい数字が出た生徒は、その数字につながる実践をしてきた過去があるのなら、自信を持とう。過去の過程に自信がなくても、たまたま良く出たものだと思うとしても、その数字は実力の一端は示している。本番でもそのたまたまは起こりえる。いい数字が出る、ということは、実力は伸びている。それは間違いない。残り時間で、「たまたま起こる」を「よく起こる」に変えていけばいい。

直前に一番言いたいことは、「直前期の学習効果は、今までの同時間の数倍」ということ。最後の数週間の価値は高い、今までの時間の数倍の価値を持つだろう。特に地歴政はここからがものをいう。ここから新しいことをやる必要はないから、今までやってきたことを集中して丁寧に積み重ねていこう。最後まで学力を高めようと努力を続けること。焦らず目の前のやるべきことを一つずつこなすこと。

もっと言えば、12月から1月までの間に、3教科で偏差値2程度の上昇が得られるものだと今年分かった。というのも、今年の1月のテストの一部は、過去にやったテストである。だから、偏差値の元データはその過去の生徒たちのもので、今年のものではない。言い換えれば、数年前の生徒との比較で偏差値化した、ということだ。そこで自分の校舎の平均偏差値を見たら、当時と比べると2あがっていた。もう少し細かく調査しないと正確なことは言えないが、12月~1月までの1か月は、平均で2(3教科で)の偏差値上昇ができる期間ということになる。しかも、それは全体の平均だから、伸びている人はその2~3倍伸びているのだろう。 

 そう考えると、希望が湧いてこないか。直前期の残り時間、社学スポ科まで行く人にとっては2週間以上ある。その時間の価値は、われわれが思っているよりずっと大きいのだ。競馬を見れば分かるように、ぎりぎりの競り合いの勝負は最後のグイで決まる。最後まで下を向かず、音を上げず、走り抜け。

 先の「メンタルで90%決まる」という言葉は、以下のように解釈すれば正しい、と言える。

たとえば偏差値60の大学を受けるとして、56~64あたりの人の合否を分けるのは、「90%メンタルで決まる」、とするなら正しい。「本番力」に加え上記「直前期の学習」効果も含めて言えば、±4の偏差値の差など本番試験で勝負を分けない。それ以上に勝負を分けるのが「本番力」と「直前期の学習」だ。

 先日共通テストがあった。その中で驚くくらい力を出せていない生徒の話をたくさん聞いた。なぜそうなるのか。

それは、「本番と練習は別物」だからだ。

 共通テストの英語は、もともと時間との勝負だ。問題の難易度よりも、全部解き終わるかが勝負を分けるものだ。しかも、本番になればいつも以上に慎重になり時間がかかる。そして本番だけに、残り時間に焦りいつものように解けなくなる。するとますます確認するようになり、さらに時間がかかる。

 このような「焦りスパイラル」に陥り、驚くような得点になってしまう。現役生によく起こることだ。なぜなら、経験がないからだ。経験知は、練習では補いきれないものがある。本番でしか味わえないこともある。

これが本番だ。本番は練習とは違う。本番でしか学べないこともある。

 だから、失敗してよかったのだ。

私は、自分の教える校舎ではそうなる生徒が続出してもいい、と思っていた。なぜならば、共通テストで体験し、本番で起こることや陥ってしまうことを体で理解することは大切だと考えているからだ。上智や青学志望なら、共通テストこそが「本番の本番」という生徒もいるだろう。それらの生徒には、この情報を先に渡すことにした。しかし、その他の増田塾生にとって、共通テストは本番ではあるが、「本番の本番」ではない。そして本番でしか学べないことがある。だから、失敗を味わって次に活かせるならば、共通テストの失敗は失敗ではない。むしろ「正解」である。失敗して体で味わわないと学べないこともあるんだ。

だから、失敗してよかったのだ。それを次に活かせばよいのだ。

 だから、言い続けた。失敗から目を背けるな、後回しにするな。原因を考え、もう一度同じことにならないためにはどうしたらいいかを考え、それを記録したら忘れろ、と。

 「失敗は成功の母である」という。共通テストで失敗して気づけたことがあるならば、それが今である幸運に感謝しよう。「本番の本番」が始まってから気づいたら、もう考え直す時間もないかもしれない。修正してメンテナンスする演習時間もないかもしれない。今だから時間がある。だからよかった。本番で失敗したとしても、まだ勝負が続くなら、残りの勝負に活かそうとせよ。そうできたなあ、その失敗も必然かもしれない。

 「痛いってことは成長してるってことでしょ。だからいいことだよ。」 最近マンガで見つけた言葉だ。骨が伸びる時の成長痛のように、痛みの伴わない成長はない。失敗を活かして人は成長するもの。

不安にまみれ、もうすぐ来る合否結果とその後の未来が怖くて痛い、苦しい。怖くて勉強に集中できない、夜不安で、ネットやSNSに逃避し続けてしまう。引きこもりがちになってしまう。よくわかる。今の自分も事情はまったく違うが似たような状況にいる。

でもね、それが「本番」というものだ。リスクをとって勝負すると決めて始めた大学入試なら、今までの人生でそういったリスクをあまりとってこなかったなら、痛いのは当然ではないか。不安なのも怖いのも当然だ。それが勝負するってことだ。

だから恐れるな。覚悟を決めて、まなこと震える心にぎゅっと力を入れ、突撃せよ。

不安にまみれても、それも含めて自分であり、その不安や痛みが自分の成長のために必要なことだとわかってほしい。だから、それを否定して抑圧することなく、上手く共存しよう。なだめてよしよししながらはげまし、よわっちい自分と共存する。抑えられない想いは、周りの受け容れてくれる人に少しだけ吐き出し、またすぐに切り替えて前を向いて戦う。

 勉強中と試験中だけ、感情は横に置いておいて、感情には暴れないでいておいてもらえればいいだけだ。勉強中と試験中以外は不安にまみれて苦しくても問題ない。それは成長しているっていうことで、強くなるためには避けては通れないものだ。まだまだ人生も勝負も続く。こういう経験も成長のために必要な滋養である。

 ユングの概念は、今まで作ってきた流れによって導かれる必然的な未来がやってくる、と解釈できる。私が過去見てきたたくさんの受験生でも、そう思う。そうであるならば、残り時間でできることは、その流れに乗り続けることだけではないか。今からジタバタしても、その必然的な流れを上方に修正できる人はまれだろう。それができるなら、ここまでにできているはずだからだ。

 ならばジタバタする必要はない。今のままでいいのか、もっといい道があるのではないか、と不安になる必要はない。すでに、流れと道はできている。今まで書いたことと矛盾するように見える点もあるかもしれないが、これは矛盾ではなく逆説である。ただし、残りの時間の努力は、その必然に組み込まれている。最後たるむなら、それは終着駅にたどり着けないだろう。甘えず戦え。

 我々にできるのは、「この1年、もしくは人生で培ってきた流れ」の終着駅に、振り落とされないようにたどりつくだけだ。その流れの終着駅は、我々の到着を待っている。右往左往し、振り落とされそうになりながらもしがみついて進んでくる我々を待っている。そして終着駅付近で、流れの帰結たるチャンスが訪れる。後はそのチャンスを掴みとれるかどうかだ。機会を作ることができるのは、流れの履歴による運命の力。しかしそれをつかめるかどうかは、君らの本番力だ。人は大きな運命に沿って生きていくが、その運命の中でどれを手に取り、どれをスルーするかの主体性は保たれるもの、そう教わってきた。そして、今まで生きてきてそう見える。

そうであるならば、今不安にまみれてしまうのも、共通テストで失敗してしまうのも、その流れの中にあったんだ。だからそれは悪いものではなく、むしろ先に活きるものなのかもしれない。振り落とされないようにしがみつけばいいのであって、悪い方向に行っているわけではないのかもしれない。

 そもそも受験はすべて受かる必要もなければ、数字通りに合否が決まるものでもない。たとえば、最終的にSKJに進学した生徒の、一つの試験あたりのSKJ合格率は、33%程度だ。SKJであれば偏差値が3程度足りない状態における合格率がその割合だ。ならば、偏差値が2程度高い第一志望群を6つ受けるとして、合格する可能性のある問題が来る可能性は、半分=3つか4つだろう。ということは、実力が少し足りない状態で合格するのが、進学者の平均だということだ。その半分=3、4回のチャンスのうち、一つつかめればいい。1回失敗してもまだくじけるのは早い。チャンスはまだ来る。

 もっと上の勝負でも同じだ。偏差値4程度足りないところの合格率は20%程度だ。残りの時間の過去問対策と地歴の埋め込みで、その確率を少しでも上げていけ。先に行ったように1ヶ月フルマックスで実力を偏差値6伸ばすことができうるんだ。

でも、たとえ20%のままでも、合格しうる問題は最低でも1/3配られる。最低でも。だから、そのレベルを4つ受けるなら、1回は必ずチャンスが来るはずだ。いい流れを持っているなら、2回チャンスが来るはずだ。あとはそのうち一回をそっと、丁寧にしっかりとつかめばいいだけだ。つかもうとするな。自分の持てる力をすべて吐き出して、前のめりに倒れて、あとは天命に任せよ。そしたら、合格してるよ。

15%?10%? 上等だ。受かりうる問題が配られる可能性はその1.5倍はある。何校受けるよ、その挑戦校レベルを。そうだ、受かるチャンスは必ず来る。それをそっと自然とつかむだけだ。受かる問題が配られるのを待ち、その日、持てる力をすべて発揮してつかみとるだけだ。恐れるな。意識を集中せよ。ただただ力を出すことだけに集中せよ。そして意識をたぎらせよ。感情は意識と集中を阻害する。気持ちで戦うな。理性で燃えよ。チャンスを逃すな。チャンスボールが来るのを丁寧に集中して待て。そしてしとめるんだ。そうやって先輩たちも受かってきたんだ。受かるべくして受かってきたんじゃない。後に記すが、偶然に見える必然をつかんで、先輩たちは受験を乗り越えてきた。先輩たちもわれわれも、そうやって恐怖におびえながら不安に塗れつつ、それを乗り越えてきたんだ。程度に差はあれ、みんな同じなんだよ。

 そう、実は自分もみんなも同じなんだ。みんな不安で怖くて、でも踏ん張って戦ってきたんだ。乗り越えた後だから、強そうに見えるだけなんだ。

 君らに伝えたいのは、どうにもならない、どうあがいても合格できない問題が出る、ということだ。それは単元がアカンのかもしれないし、出題形式がアカンのかもしれない。不運にも今年の問題が合わなければ、その日は必然的に落ちる。どうあがいても合格はできない。しかし逆に、合格できうる問題、チャンスボールも必ず来る。それをつかめばいい。どうにもならないことをなんとかしようとするな。自分ではどうにもならないところは、どうしようもないことと諦め、逆にどうにかなるところで最後までにじりよる。少しだけでもにじりよろうとする。自分にはどうにもならないところはあきらめ、しかし自分にどうにかできることだけに意識を集中し、チャンスを待ち続ける。その結果が、奇跡に見える合格なのだと、受験の合否はこういうものだと私は確信している。

後に記すが滑り止め3つからずっと不合格をくらい、最後の最後までチャンスを待って、最後の社学だけ合格した教え子が、大学及びチューター4年間を卒業し、フライトアテンダントになった。浪人だったし、あとはないし、受験終盤でどれだけの不安と恐怖を抱えていたんだろうと思う。それでも最後の最後で歯を食いしばり再び立ち上がり合格をつかみ取ってきたことは、たまたまの奇跡ではない。絶望的な状況の中でも最後まで可能性を信じ、戦い抜いたから、そしてそこに偶然に見える必然が訪れて起こったことだ。もちろん、周りの助力もあったろう、幸運もあったろう。しかし、その可能性を信じて戦い続けたやつにしか、訪れない必然の奇跡だ。

 最後に大切なことをもう一度。

感情は集中を阻害する。それが、不安や恐怖といったマイナスのものであれ、「やってやる!」のようなプラスのものであれ、集中は理性的なものなので、感情は集中を阻害する。

 だから、気持ちで燃えて試験に挑もうとしない方がいい。もちろん、マイナス感情にまみれているよりは、プラス感情にまみれている方がいい。でも、一番いいのは感情的にフラットな状態。朝起きたら、気持ちをそっと横に置き、目の前の問題、学習内容に集中しよう。朝起きたあとは、感情を刺激して自分を励まそうとしないのがベストだ。夜はテンションが上がり、元気になるようなものを読んでもいい。朝目覚めたら、感情的になろうとするな。理性と意識で燃えよ。集中と粘りで燃えよ。それは気持ちではない。

 感情をフラットにする具体的な方法を一つだけ紹介する。こういうのは経験知だから、先生や先輩たる校舎スタッフ、両親に聞くのもいいと思う。自分に合う方法を見つけてほしい。

 「ななめ15度上方を目の底に力を入れてじっとにらむ」というのが、自分の方法だ。勉強に集中できなかったり、試験前でブルーな時に効果的だと思う。ホワイトボードの上端か、時計あたりを、やや上目遣いに、目の底にぐっと力を入れてにらみつける。10~30秒くらい。そして念じよ。

「なるようになる。自分にできることは、落ち着いて自分の力を解答用紙に出してくるだけだ。あとは運命に任せるだけだ。」

「!」を付けなかったのは、感情的にならないようにするためだ。気持ちで戦うな。理性でクールに燃えよ。意識を先鋭化しとぎすませ。湖一面に張った氷のように、鋭くシャープに、しかしフラットにたぎれ。そしてそれを日々続けよ。いい結果が来ようが失敗しようが最後まで諦めることなく続けよ。チャンスは一度ではないだろう。一つつかめばいいのだ。そういうふうにできたら、必ず来るべき未来が待っている。勝とうとしなくていい。でも自分に、自分の弱さに負けるなよ。飲み込まれるなよ。自然と勝ちはフワッとやってくるもので、奪い取るものでも、無理やりつかみ取るものでもない。丁寧にしっかりと、しかし自然につかむものだ。君らの先輩の受験をずっとみてきたけど、そういうもんだよ。だから怖くない。大丈夫。なんとかなるよ。そしてなるようになる。じたばたすんな。

  

  

付録1 本番で力が出せそうにない生徒の行動パターン

1、志願者速報の数字を毎日確認している人

 もう出願してしまったなら、どうにもならない情報を見たところで1ミリも合格に近づかない。しかも、不安になるばかりでポジティヴにならない。でも不安だから気になる。だから確認してしまう。そうやって自分の弱さと不安を甘やかし続けてはならない。志願者速報禁止。

2、事務スペースに頻繁に出てきてダルがらみし続ける人

 不安と恐怖を自分で持っていられないから何とか緩和しよう、してもらおうとして、教室スタッフや他の生徒に絡み続ける人。自分の弱さとだめさを自分で助長し続ければ、それはうまくいかない。不安と恐怖にまみれてしまったら、ばっと吐き出し、さっと切り替えよう。だらだらと傷のケアや舐めあいを要求し続けるな。苦しさや辛さを吐き出すのはいいことだ。でもそこにとどまるのはだめだ。

3、ネット上の解答速報掲示板(受験生が議論するもの)で、受け終わった試験の答え合わせをする人

 自分ではどうにもならない部分(可変域)と自分ではまだどうにかなる部分(不可変域)に分けて考えると、可変域は最後の最後までもがいて改善しようとすべきだ。それに対し、不可変域は、ここまで書いたようにポジティヴに諦めるべきである。自分の力が及ばずどうにもならない所は、諦めて受け容れよ。ただし、まだどうにかなる可変域はある。それを最後まで追い求める姿こそが良い流れを呼び込む。部活やスポーツで考えてみよ。過去の失敗を引きずって試合中にへこたれて腐っている奴は選手交代だ。残り時間でできることと取り返すことを考えよ。自分なら試験後地歴(英文法もまあよい)の復習はするが、英語と国語はしない。デメリットがメリットを勝るからだ。

自分の弱さやだめさをケアすることは大切だ。しかし、ケアし続けてはならない。応急処置をしたらまた戦え。走り出せ。でなければ勝負は勝てない。ここが本番力の肝だ。うまく付き合うんだ。己の弱さと、己のだめさと。そこも含めて自分でワンチームだ。だめでもいいんだ。ともに成長していこう。

  

 

 付録 近年の増田塾レジェンド(藤原担当生徒版)

1、センター英語120点で慶應法合格。

 センター後、彼は言った。「ま、センターですから。ここで運を使わなくてよかった、ということですよ。去年140点だったので、さがっちゃいましたね(笑)」強がりに見える横顔でもあったが、彼は強がりで押し切れると思った。少しは揺れていたが、彼は感情とうまく付き合えていたからだ。私は、センター英語の見直しを要求し、それが終わったら忘れるように伝えた。結果、早慶では慶應法のみ合格した。最後に祝賀会で彼は言った。「先生、センターも含めてこれが運命なんだなって実感してましたよ(笑)だから不安はありませんでした!」 きっとそれはうそだと思った。でも、このくらい点数や偏差値は上下するものだ。問題内容やテンションで。

2、慶應文と明学だけ受かり、マーチと早稲田全落ち。

 慶應第一志望だったが、世界史がとにかく苦手だったので早稲田中心の受験校に変え、慶應は文のみとした。慶應文に合格。マーチ5校以上は全落ちし、もちろん早稲田も全落ち。マーチ全落ち中と聞いてこの生徒を激励しに校舎に行ったときの様子が記憶に残る。

「伝説作ってやる、伝説作ってやる!」とリズミカルにぶつぶつ言いながら廊下をすれ違っていった。歩きながら見ていた教材は世界史一問一答だった。それを見て私は激励せずに校舎を後にした。そして翌日の慶應文の合格をつかみとった。

3、滑り止めと早稲田商まで早慶上智全落ちして、最後の社学だけ合格。

 私の見てきた中で、CTの点数、面談指示の徹底さ、礼儀や配慮、どの点でも最高評価の生徒がいた。CTはおよそすべてが90%平均以上で、当然の合格保証だった。でも一点だけ、無駄に強がりというか、自分にプレッシャーをかけるというか、自分への自信があまりないのに、そういう点が心配ではあった。地頭もあまりよくなかったか。ただ、その点を差し引いても、大学入試で早慶に行けないことはあまり考えられない、そういう生徒だった。だから、あまり私の方から精神的サポートをせず、自分の足で受験したと思えるように受験させようと思った。その方が今後の彼女の人生で自信になると思ったからだ。2月も半ば過ぎ、その生徒の母親から電話があった。「先生、滑り止めの明治と立教、不合格でした。どうしたらいいのでしょうか。」私は応えた。「成績上は、早慶上智でも余裕を持って合格できるレベルで、合格にふさわしい努力と誠意をこの一年で積み重ねてきました。そういう生徒はおよそ合格します。だから、まだ滑り止めも立教一つありますし、落ち着いて待ちましょう。」 その後、最後の滑り止めも不合格とわかり、その日までに受けた早慶の手ごたえもないらしく、社学の前日を迎えた。その日、私は幸運なことに彼女と電話で話をする機会を持つことができた。1時間ぐらいだろうか、ゆっくりと泣きながら話す彼女に伝えた。「必ずチャンスは来るはずだ。いや、たとえ明日ノーチャンスだとしても、やることは変わらない。もうここまで来たんだから、腹をくくれ。感情があふれ出てしまうのなら、制御しようとせず、思いっきり出し切って構わないから、思い切って行ってこい。この一年の流れの終着駅を見て来い。それは悪いものではないはずだ。」そんなことを言ったんだと思う。彼女は最後涙ながらのいい笑顔をしていた。私も本当に怖かった。ここまでちゃんと信じてついてきてくれた子を合格させられなかったら、自分はどんだけ無能なのだろう、どんだけ役立たずなのだろう、そう思っていた。そして社学のみ合格、という連絡が来た。涙が流れたかどうかは覚えていない。勝負事は最後まで何が起こるか分からない。諦めたらそこで試合終了。受験はメンタル9割。ほんとうにそうだ。

4、肺に穴を開けながら早稲田合格。

 肺気胸という、肺に穴が開いて呼吸できなくなる病気を持っていて、それは再発するものだった。夏明けに一回気胸を発症し入院→手術、受験期にも再発することを自分は予想していた。やはりストレスが強くかかるからだ(医学的にはストレスとの因果関係は証明されていないが)。そしてセンター付近で再発。そこから入院して手術をする、と聞いて、校舎のみんなで色紙を書いたのを覚えている。しかし、この生徒は三日後に登校。その胸には穴があいていて管がついていた。ある程度の入院になってしまうので、根本的な治療である手術という選択を避けて、肺が潰れても呼吸困難にならないように、管を付けておくのだ、と言っていた。ダースベイダーのように、呼吸に合わせて動く点滴の袋のようなものが、血がにじんで管の先についていた。

彼は言った。「先生、これ意外に痛くて勉強に集中できないし、夜も眠れないんですよね。」何も意外ではなく見たまんまだった。そして私は言った。「もう、どこか受かればそれで大学入試は良しとしよう。生き抜けばいいさ。残りの勉強よりも、受験できることを優先して行こう。」 

それから2週間後、彼はいいとこ実力判定Cしかなかったのに、明治の情コミに早々と受かった。胸からドレーンをたらしながら。だから言った。「もう受験終わりにして、手術でよくね?痛いんだろ?」彼は答えた。「いや、ここまで来たら、あと受けるだけなんで、最後まで見てきますよ、運命の終着駅を、行ければですけどね(笑)。痛いんで余計なこと考えなくてちょうどいいんですかね(笑)、力を出し切れている感があります。」彼の顔には、悲壮感もなげやりも、しかし必死さもなかった。あったのはポジティヴな諦めだった。自分にはどうにもならないところは諦める。でも、自分で選べるところまでは選ぶ。やれるところまではやる。その先は考えない。そういう精神を彼から学んだ。そしてこの偉大な少年は、早稲田の教育と社学に合格した。最終日の社学に受かるってことは、そこまで走り続けたってことだ。そんな彼はふと私の帰り際に大宮校に現れた。「南アフリカに留学しようと思うが先生はどう思うか?」と相談に来た。南アフリカとはさすがだと思った。きっと今は日本に帰ってきて、ポジティヴに諦めつついい仕事をしているのだろう。

5、MARCH全落ち、東洋すら不合格で慶応合格。

 自分に大切なことを教えてくれた生徒。この子は、やる気がないように見えたが、実はいいやつだった。地頭もよく、英語の暗記もできるのに、地歴だけ後回しにしているように見えた。苦手でできないことを後回しにして逃げているように見えた。夏に日本史70%という、自分の増田塾史上で初の学習割合指示を出した。見ている限り、勉強時間はたしかにそのようにやっていた。そしたら9月に偏差値は上がった。45→46になった。驚いた。その成績表を見て自分は一旦、軽く絶望した。

その9月、この子に保護者面談を求められ、保護者と三者面談をしているときに保護者に言われた。「地歴の偏差値は人間の偏差値、って先生のお言葉ですよね?」 自分は、まずい、やりすぎた、これはクレーム面談なのか、と恐怖に震えた。「うちの子、その言葉を習字にして壁に貼っているんですよ。」 

 もう一件あった。ある日、この子は転んだのか、ひざをずるむけにして血だらけできた。この子曰く、自分の授業の小論文グッズを家に忘れてきて、家に一回戻ってスーパーBダッシュで塾に向かった結果、途中で転ぶという残念さを発揮して、しかし家に戻って処置をしている暇はないのでそのまま今、ここに在る。こんな趣旨だったと思う。ひざから血を流しつつ自分の授業を受けている生徒は、いまだにこの子しかいない。

 ほかにも色々あったような気がしたが、自分に本気が伝わった。ただの逃げているナメック星人と思っていたが、違うんだとよくわかった。だから、誤解していた分も含めて、なんとか受からせてあげたい、そう思った。

 本人の第一志望は早稲田国際教養だったが、自分から見ればどうみても無理だった。そのくらい地歴ができなかった。無意識で頑なに地歴を拒否している感じだった。早稲田はすべて不能、明治も厳しい、でもGMARCHはなんとかなる。それが自分の判断だった。ただ、自分には唯一の早慶が見えた。SFCなら地歴はない。この子の読解能力はSFCに向いている。だから、本人を説得した。第一志望でなくてもいいから、慶応SFCの受験を考えてみないか。

 頑固なこの子は悩みぬいた末、自分のプランに乗った。もちろん、早稲田国際教養が第一志望のままである。結果は上記の通りだ。東洋の一般すら落ちて、MARCH全落ちして、地歴がない2教科の法政全学部すら落ちて、でもSFCは片方合格、片方補欠だった。

 ああ、そうだよね。ああ、こうあるべきだよね。そう強く感動した。高2からずっとがんばってきて、でも自分の弱さと逃げているところは改善できなかったのかもしれないけれども、でもでも変わろうと努力はしていて、だからその姿勢はこっちに伝わって、だからなんとかしてあげようと自分は思って、手を自然と差し伸べて。

 GMARCH下位も全落ちして、東洋さえも不合格でも、SFC合格。これは奇跡ではない。怖かったけれども、自分はSFC合格を信じていたし、確信していた。そうあるべきだと、そうなるべきだと。だからそうなったんだと今考えても思う。

 そして先日、自分の誕生日にチューターづたいにこの子からメッセージが届いた。

 「大学受験は初めて目に見えないものが、この世界には存在するんだなあと実感できた機会でした。~~受験時の私のメンタルがFなら、今はDかなと笑。図太くはなりました。~~日々自分の無力さを痛感し、苦しんでもがいています笑」

 とっても嬉しくてとってもしあわせだった。でも、これを読んで思った。これは結果論ではなく、必然だったんだな、と。そのドラマの脇役に自分が参加できたのはしあわせだったな、と。なかなかこの言葉は言えないものだ。己のダメさと弱さを大学生になった後も直視して謙虚さを失わないこと。それはなかなかできることではない。みんなすぐピノッキオか天狗になりがちだ。

 偶然に見せかけて、その中に必然は訪れる。でも、そこにたどり着けるのは、最後まで信じて、諦めずに戦い続けるやつだけだ。まさにテスト中の、最後のきわっきわで粘れ。戦え。ラピュタの、「今そこに低気圧の壁があるよー!」というドーラの言葉張りに、今まさにそこに「合否の分かれ目」がある。そこで最後のギアを一段あげよ。まだあるだろ? 最後のラストスパートがまだあるだろ? そこが勝負だ。くじけそうになったそこが勝負なんだ。そこでふんばって苦しくても無理してでもギアを一段あげて集中せよ。「ここが勝負だ!ここがきわっきわだ!ここが勝負の分かれ目だ!」

 以上、枚挙にいとまはないが、紙面の関係でとりあえずの5例をあげてみた。今年も君らのドラマに並走しつつ、そのドラマを味わってきた。最後は気持ちの勝負だ。そしてその気持ちとは、弱さを抑圧する強がりではなく、自分にはどうにもならないことを諦め、しかしどうにかなるところを追い求める「ポジティヴな諦念」で、仏教の「悟り」に通じるものだと思う。

 覚悟を決めて挑め。そして残りの時間を大切に勉強せよ。しかし忘れるな。もう勝負はおよそついている。あとはその終着駅にたどりつけるかどうかだ。その終着駅がどこの大学なのか、それは行ってみなければわからない。だから無理することはない。今まで通り、やるべきことをやって自然体で受けてきなさい。ゴールの先で、みんな待っている。ただし、緩むなよ。緩んだら、その必然の未来に辿り着けない。最後の最後まで走りぬけ。そして祝賀会で会おう! 失敗を防ぐお膳立てを整え、しかし失敗を恐れるな。

    藤原 貴浩

難関私大文系予備校「増田塾」の元教務部長。 現在はオフィス藤原を運営しつつ、増田塾に現代文・小論文講師として出講している。